埼玉県さいたま市見沼区大和田町1 --南西から城址遠望-- |
別名 | |
交通 | 東武野田線「大宮公園駅」から徒歩15分。 |
築城年代 | 1584年(天正12)頃か |
築城者 | 伊達与平衛房実か |
形式 | 平山城 |
主な城主 | 伊達与平衛房実 |
岩槻城主太田氏の家老であった伊達与平衛房実の居城。 築城年代は明らかではなく、1584年(天正12)頃ともいわれるが、岩槻城の支城として1564年(永禄7)以前に築かれたのではないかという説もある。 房実は元々駿河伊達氏の出身で、高天神城主小笠原長忠に仕えており、姉川合戦では高天神衆の一員として出陣し、姉川七本槍の一人に数えられている。(同時代に2人伊達与平衛を名乗った武将がいたという説があり、別人ともいわれる) 徳川家康の2女督姫が北条氏直に嫁いだ際、房実も督姫に従って小田原城に入城し、氏政に仕えるようになった。 その後氏房が太田氏の家督を継ぎ岩槻城に入ると、房実も家老としてそれに従い、出城としてこの伊達城を築いたとされる。 1590年(天正18)豊臣秀吉による小田原攻めの際、房実は氏房が小田原城に入り、城主不在であった岩槻城を替わって守るが、豊臣勢に攻められ落城した。 後に徳川家康が関東に移封すると、旧領である大和田村に再び領地を与えられた房実は、大和田陣屋を設け、民政を行った。 現在城址は宅地や老人ホーム敷地になっており、遺構は確認出来ない。 |