榎本城

榎本城えのもとじょう
栃木県栃木市大平町真弓
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--城址碑--
別名    
交通 東武日光線「新大平下駅」から徒歩35分。
築城年代 1558年(永禄1)
築城者 榎本高綱
形式 平城
主な城主 榎本氏・近藤綱秀・本多忠純
1558年(永禄1)小山城主小山氏の一族である榎本美濃守高綱により築かれたと伝わるが、土地改良事業で土塁の一部が崩された際、1398年(応永5)や1429〜41年(永享年間)の板碑が出土しており、築城年代は更に遡るものと考えられている。
1563年(永禄6)上杉謙信による小山城攻略の際、榎本城は占領されるが、1564年(永禄7)北条氏政の命を受けた皆川城主皆川俊宗に攻められ、後北条氏が領有した。
1584年(天正12)榎本高綱の子である高満の後を受けて近藤出羽守綱秀(助実)が榎本城主となる(一説に実方)。
1590年(天正18)豊臣秀吉による小田原攻めの際、綱秀は城主北条氏照不在の武蔵国八王子城山下曲輪を守り、討死、榎本城も結城晴朝勢に攻略され、1603年(慶長8)まで結城領となり、結城氏家臣である児玉庄左衛門が在城した。
1605年(慶長10)後の宇都宮城主本多正純の弟忠純が1万8千石で入城し、その後大坂冬の陣・同夏の陣の戦功により皆川に加増を受け、2万8千石となる。しかし1640年(寛永17)本多氏は断絶し、榎本城は廃城となった。
法宣寺付近一帯が城址で北側道路沿いに城址碑・案内板が立つ。城域は東西約600メートル、南北約400メートルに及び、本城・御殿山・北城・的場等の地名が残る。大半が耕地や宅地となるが、城址碑裏手に大規模な空堀が残り、また各所に土塁や堀跡と思われる窪地が確認出来る。また南西の大中寺や妙性院に城主本多忠純・近藤綱秀墓が立つ。
城址碑裏手に残る堀跡 北側にも土塁や堀跡が残る 西から遠望
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法王寺
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大中寺・本多忠純墓
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妙性院・近藤綱秀墓

参考文献 「とちぎの古城を歩く 下野新聞社」
            「栃木県の中世城館跡 栃木県教育委員会」
           「茨城・栃木・群馬の城郭 新人物往来社」
訪城回数 1
2022年5月