皆川城

皆川城みながわじょう
栃木県栃木市皆川城内町
Mapion

--本丸・城址碑--
別名 法螺貝城
交通 各線「栃木駅」から徒歩50分。
築城年代 1429〜41年(永享年間)か
築城者 長沼秀宗か
形式 山城
主な城主 皆川広照
1229〜32年(寛喜年間)小山城主小山氏の一族長沼氏の祖である長沼宗政の孫宗員により築かれたとされるが、この時築かれたのは現在の皆川城南東麓の台地「白山台」に設けられた居館の事と考えられている。
宗員の後、皆川氏が6代続くが、1323年(元亨3)宗常は鎌倉幕府執権北条高時に背いて自害、皆川氏は所領を没収され、断絶したか、あるいは一時皆川荘の放棄を余儀無くされたものとみられる。「第一次皆川氏
14世紀初め、奥州へ本拠を移した長沼惣領家はその後再び下野国に進出するが、1429〜41年(永享年間)会津国田島から長沼秀宗がこの地に移り、既に皆川城を本拠地としている事から秀宗あるいは父憲秀により現在の皆川城が築かれたと考えられる。「第二次皆川氏
1440年(永享12)結城合戦の際、秀宗は小山持政らと共に幕府方に従った為、皆川城は岩松持国・桃井憲義らに攻められたが、撃退している。
1523年(大永3)11月、宇都宮城主宇都宮忠綱と争った川原田合戦で皆川宗成が討死している。
1584年(天正12)7月、北条氏政・氏直父子が太平山方面から攻め寄せると皆川広照は鹿沼城主壬生義雄の来援を得、草倉山に布陣して約3ヶ月に防衛戦を繰り広げたが、合戦は徳川家康・佐竹義重の仲介により一時的に終結、翌年北条氏政の養女(中御門中納言宣秀の娘)が広照に嫁ぐ事で和議が成立し、以後広照は後北条氏に従うようになる。
1590年(天正18)豊臣秀吉による小田原攻めの際、広照は小田原城に籠り、城主不在の皆川城は上杉景勝・浅野長政らに攻められ、降伏・開城した。小田原城竹浦口を守備していた広照は城を出て投降した為、所領を安堵され、その後皆川城・川連城に替わるものとして栃木城を築いた。
1603年(慶長8)松平忠輝の附家老として信濃国飯山城に移った広照は、1609年(慶長14)改易となり、剃髪して老圃斎と号した。1623年(元和9)赦免されると1万石で常陸国府中城に入城した。孫である成郷の時、皆川氏は断絶するが、弟の系統は旗本として存続している。
標高147メートル、城山に築かれており、城址公園として綺麗に整備されている。山頂の本丸から西に二の丸・西の丸が続き、周囲に幾重にも腰曲輪が設けられており、地元ではその外観から法螺貝城と呼ばれている。南と南西には麓まで伸びる長大な竪堀を配し、北斜面にも三重の竪堀があり、また北側を除く山麓端には横堀を巡らせている。南麓の皆川出張所・駐車場付近は居館跡で西側に土塁が残されており、西に建つ金剛寺には皆川氏歴代墓所がある。また東方に位置する東宮神社も出城跡で堀や土塁が残されている。
南麓・居館跡 南竪堀 南腰曲輪
南西横堀 南西腰曲輪 南西竪堀
二の丸下腰曲輪 南西帯曲輪 西の丸
二の丸 北斜面・三重竪堀の一つ 北横堀
本丸 本丸からの眺め 本丸から見る居館跡
南東腰曲輪 南東横堀 南から城址遠望
Mapion
金剛寺・皆川広照墓
Mapion
白山台
Mapion
東宮神社

参考文献 「とちぎの古城を歩く 下野新聞社」
           「茨城・栃木・群馬の城郭 新人物往来社」
訪城回数 1
2020年12月