築城者・年代は不明だが、初め黒川谷の土豪である阿久沢氏等の寄居として築かれ、1558〜70年(永禄年間)城郭として整備されたと考えられる。 桐生城主桐生氏滅亡後、この地は上杉・後北条氏両勢力の進出する所となり、1574年(天正2)3月、上杉謙信は阿久沢兄弟を降して深沢城に押さえとして越後衆を入れている。 1579年(天正7)太田金山城主由良国繁と後北条氏との協定が成立すると、深沢城は五覧田城と共に由良氏の支配下に入るが、1584年(天正12)国繁が後北条氏から離反すると、後北条方となり、由良氏の深沢城攻めを防いだ。その後1586年(天正14)後北条氏の指示を受けた阿久沢彦次郎・前原・目黒氏らは五覧田城を攻略している。 1590年(天正18)豊臣秀吉による小田原攻めの際、阿久沢氏は小田原に籠り、戦後、深沢城は廃城となり、阿久沢氏は帰農したとされる。 渡良瀬川右岸、黒川谷入口に位置する。本丸は二の丸より2メートル程低い位置に設けられているのが特徴的で、北東南の三方に内堀が築かれ、南と西は急崖をなし、要害の地形を有している。本丸南尾根には堀切で4郭に分けられた山城遺構が見られ、ここが深沢城の前身といわれる。二の丸は本丸の北と東を囲むように設けられ、一画に正円寺が建つ。北から東にかけて外堀が築かれており、一部埋められているが、正円寺裏手に良く残されている。また正円寺墓地には阿久沢氏累代墓所があり、城址南西には深沢城攻略の際、戦功のあった松井氏との関連も考えられる石幢(庚申供養)が残されている。 |