郡上八幡城

郡上八幡城ぐじょうはちまんじょう
岐阜県郡上市八幡町柳町
Mapion

--復興模擬天守--
別名 積翠城・郡城・虞城
交通 長良川鉄道越美南線「郡上八幡駅」から徒歩30分。
築城年代 1559年(永禄2)
築城者 遠藤盛数
形式 平山城
主な城主 遠藤氏・稲葉氏・青山氏
1559年(永禄2)東殿山城主東常慶の子常堯は、一族である遠藤胤縁を謀殺すると、胤縁の弟盛数は兄の弔い合戦の名目で挙兵し、東殿山城対岸に位0置するこの八幡山に布陣し、東殿山城を攻めた。この戦いで常慶は討死し、東殿山城は僅か10日で落城、常堯は城を脱出し、飛騨白川の内ヶ島氏の下へ逃れるが、 1585年(天正13)天正大地震により崩壊した帰雲城と運命を共にしたとされる。そして東氏を滅ぼした盛数はこの戦いで布陣した八幡山に郡上八幡城を築いた。
1583年(天正11)賤ヶ岳合戦に際し、岐阜城主織田信孝が柴田勝家と謀り、羽柴秀吉に叛旗を翻すと、盛数没後に跡を継いだ慶隆は信孝に従った為、戦後領地は没収となり、小原城へ移された。代わって郡上八幡城に稲葉貞通が入城すると、大改修が行われ、山頂に天守が築かれ、山腹には本丸や下屋敷(二の丸)が設けられた。1600年(慶長5)関ヶ原合戦の年、稲葉貞通は西軍に従い、犬山に出陣する。一方前郡上八幡城主遠藤慶隆は東軍に従い、徳川家康より旧領回復の約束、そして金森可重の援軍を得ると、貞通の子通孝が留守を守る郡上八幡城を攻めた。激戦の末、和議が成立し、関ヶ原合戦後、再び遠藤氏が2万7千石の旧領に復帰した。途中から東軍に 転じた稲葉貞通は、豊後国臼杵城に転封となっている。
1692年(元禄5)遠藤氏は跡継ぎが無かった為、常陸国に1万石の減封となり、代わって井上正任が入城するが、その後出羽国上山に転封されていた金森頼時が新たに封じられた。
その後金森氏が失政により、僅か2代で所領没収となると、丹後国宮津城から青山幸道が入城し、明治まで青山氏が続いた。
南麓を流れる吉田川・城址遠望 御下御殿跡 三の丸跡に建つ安養寺
本丸跡標柱(金森・青山氏時代) 本丸跡に立つ山内一豊・見性院像
一豊室である見性院は遠藤盛数の
娘ともいわれる
本丸井戸跡
山頂へ続く石段・石垣 模擬天守 模擬天守・石垣
松の丸隅櫓 桜の丸隅櫓 桜の丸に復元された城門
模擬天守 天守から北側の眺め 松の丸北側にある首洗い井戸

参考文献 「現地案内板」
                        「静岡・愛知・岐阜の城郭 新人物往来社」
訪城回数 1
2014年4月