賤ヶ岳古戦場

賤ヶ岳古戦場
滋賀県長浜市余呉町

1583年(天正11)
羽柴秀吉×柴田勝家
Mapion

--賤ヶ岳山頂・古戦場碑--
交通 JR北陸本線「木ノ本駅」から「賤ケ岳リフト」までバス「大音」下車。
1582年(天正10)山崎合戦で明智光秀を破った羽柴秀吉は、清洲城で行われた清洲会議において、織田信長の後継者として、信忠の子である三法師(織田秀信)を推し、信長の3男信孝を後継者に考えていた柴田勝家と対立するようになる。
同年12月、清洲会議の結果、勝家の甥勝豊が入城した長浜城は秀吉に攻められ降伏。次いで秀吉は信孝の岐阜城を三法師解放という名目で攻め、信孝も三法師を引き渡し降伏した。
更に1583年(天正11)秀吉は北伊勢へ出陣し、勝家方に付いた長島城の滝川一益と争う。これにこれまで積雪の為に動く事が出来なかった勝家は、堪らず出陣を決意し、3月5日に北ノ庄城を発し、9日近江柳ヶ瀬に着陣すると玄蕃尾城に本陣を置き、江越の山々にも陣城を築いて布陣した。
この報を知った秀吉も、17日近江木之本に着陣、陣城を築き勝家と対峙した。戦線は膠着状態となったが、その隙をついて伊勢の一益は反攻に転じ、また一度降伏した信孝も再び挙兵する。
秀吉は勝家に対する備えを羽柴秀長に託し、2万の兵を率いて岐阜城へ向かうが、揖斐川の氾濫の為に大垣城での滞陣を余儀なくされてしまう。
4月20日、これを好機と見た佐久間盛政は、勝家からの「攻略後は速やかに帰陣する」という条件の下、大岩山砦を奇襲、攻略した。岩崎山砦の高山重友は大岩山砦陥落を知り、秀長本陣へ退却した為、盛政は岩崎山砦も占拠し、更に賤ヶ岳砦へは降伏勧告をし、初戦は勝家方勝利に終わった。しかし盛政は勝家からの撤収命令を無視し、明朝賤ヶ岳砦を占拠するつもりでそのまま大岩山へ留まり続けた。
大岩山陥落の報を知った秀吉は、大垣から木之本までのおよそ52キロを5時間で引き返し、9時頃には木之本へ着陣する。21日夜半、これを見た盛政は柴田勝政に援護を要請し、慌てて退却を開始するが、秀吉は追撃を始め、余呉湖畔で激戦が行われた。盛政撤退後、秀吉は殿の勝政勢を攻め、福島正則・加藤清正・片桐且元・脇坂安治・糟屋武則・加藤嘉明・平野長泰・(石河一光・桜井佐吉)らの活躍により勝利した。「賤ヶ岳七本槍
前田利家の離脱もあり、軍を立て直す事が出来なくなった勝家は、北ノ庄へ退却し、24日秀吉軍に包囲された北ノ庄城天守において自刃した。
この後、織田信孝や滝川一益も降伏し、秀吉は信長の後継者としての地位を確かなものとした。

参考文献 「現地案内板」
              「歴史群像シリーズ 学研」
2011年4月