白山城

白山城はくさんじょう
福岡県宗像市山田
Mapion
増福院(登山口)地図

--南西尾根上曲輪--
別名     
交通 JR鹿児島本線「赤間駅」から登山口まで徒歩40分。
地図の地点、増福院入口付近から登山道があります。
築城年代 1189年(文治5)
築城者 宗像氏国
形式 山城
主な城主 宗像氏
1189年(文治5)父氏実に大宮司職を譲られた36代宗像大宮司氏国により築かれたと伝わり、1562年(永禄5)氏貞が蔦ヶ岳城を再築して移るまで宗像氏本城として続いた。
1212年(建暦2)氏国は大宮司職を子氏重に譲ると片脇城へ移り、白山城は氏重居城となる。
1336年(建武3)京での合戦に敗れた足利尊氏が九州へ逃れると、大宮司氏範は白山城に尊氏を迎え、この城で軍議が開かれたとされる。同年3月1日、多々良浜合戦に勝利した尊氏が東上を開始すると、宗像家は先陣を務めたといわれる。
1547年(天文16)宗像正氏没後、正氏の娘である菊姫を正室とする養子氏男が跡を継ぐ。しかし1551年(天文20)9月、陶晴賢が長門国大寧寺に大内義隆を攻め滅ぼすと、義隆に仕える氏男もそれに殉じた。義隆と氏男の死は宗像家の家督争いを生む事となる。これに陶晴賢は介入し、周防国に在った氏男の異母弟である氏貞(鍋寿丸)を擁立して白山城に入城させると、氏男の実弟である千代松丸派は蔦ヶ岳城に拠り、対立するが、氏貞が勝利し、家督を継ぐ事となる。この家督争いの中、白山城城下の山田の御殿において氏貞派が氏男の正室菊姫とその母山田の局及び4人の侍女(花尾の局・三日月・小夜・小少将)を謀殺する事件が起きている。
1559年(永禄2)立花山城に在った宗像氏一門と思われる宗像鎮氏が大友氏の支援を受けて侵攻してくると氏貞は宗像を捨て、大島へ逃れるが、翌年毛利元就の支援を受け、奪われていた許斐岳城を夜襲して鎮氏を討ち、旧領を回復した。その後も立花山城を拠点とする大友勢との抗争は続き、1560年(永禄3)新たな居城として蔦ヶ岳城の改修を開始、1562年(永禄5)完成して移るが、その後も白山城は宗像氏の支城として存続した。
宗像連山の内、標高500メートルの孔大寺山から南西に延びた白山山頂に築かれている。山頂に本丸・二の丸を置き、北側斜面には畝状竪堀群が設けられ、孔台寺山へ続く尾根上ピークには出丸がある。本丸から増福院に下る南西尾根上にも曲輪や堀切があり、登山道と並行する長大な竪堀が確認出来る。麓の増福院は御家騒動の際に起きた惨劇後、怪異現象が続いた為、その怨念を鎮める為に開山された寺で、6体の地蔵が安置される他、山田集落には謀殺された6人の墓所がある。
南西尾根堀切 竪堀 畝状竪堀群
土塁 曲輪跡 水穴
本丸 二の丸 増福院・菊姫様六女の祭墓所
山田の局故地碑 侍女墓所 菊姫・山田の局墓所

参考文献  「福岡県の城郭 銀山書房」
                  「福岡・熊本・鹿児島の城郭 新人物往来社」
訪城回数 1
2019年12月