長野県小諸市八満 --正眼院-- |
別名 | 有利小屋城 |
交通 | 上信越自動車道「佐久IC」から車で20分。 |
築城年代 | 1492〜1501年(明応年間)か |
築城者 | 平原氏 |
形式 | 平山城 |
主な城主 | 平原幡繁 |
築城年代については諸説あり、鎌倉時代に摂津源氏多田氏の子孫平原次郎景能が築いたとする説や、1492〜1501年(明応年間)地侍小林大学頭繁晴が築いたという説もあり明らかではない。記録上はっきりしてくるのは1504〜28年(永正〜大永年間)村上義清の支援を受け、上野後閑城から平原に入った平原全真からという。 武田信玄が佐久に侵攻すると大井城や耳取城をはじめ佐久地方の小豪族は次々と降ったが、平原城主平原和泉守幡繁は村上義清の援軍を得て抵抗し信玄を撃退している。 1549年(天文18)再び佐久に侵攻した信玄に平原城は攻められたが城兵は防衛し、攻めあぐねた信玄は休戦和睦を申し入れた。しかし城内で祝杯を上げていた時、信玄に攻められ城下や菩提寺である正眼寺を焼き払われ平原城は落城した。幡繁は村上義清の元へ逃れたが、その後信玄に従い川中島等で功を立てた。 1582年(天正10)武田氏滅亡後、後北条氏重臣で松井田城主大道寺政繁に属し、その後徳川方依田信蕃に降るが、謀叛の疑いをかけられ処刑された。 信玄を幾度も撃退したこの平原城は南北に延びる田切り地形を利用して築かれ、更に周辺にいくつも出城を構えた広大な規模を持つ。正眼院東は一部墓地になっているが、複雑な田切り地形が残る。 |
正眼院東に建つ雨宮大明神 | 正眼院東側 | 複雑な田切り地形が残る |