1585年(天正13) 伊達政宗×佐竹・蘆名連合軍 --功士壇・鬼庭左月の碑-- |
交通 | JR東北本線「五百川駅」から徒歩30分。 |
1582年(天正10)以降、伊達政宗は安達地方に進出し、1585年(天正13)8月、小手森城、小浜城を攻略すると、塩松地方を掌握していた大内定綱は会津黒川城主蘆名氏の下へ逃れた。これを見た二本松城主畠山義継は政宗に降伏するが、その後義継は宮森城主で、政宗の父である輝宗を拉致・殺害し、自身も自害して果てた。 同年10月、政宗は1万5千の兵で、義継の遺児国王丸を擁する二本松城を攻めたが、畠山方も頑強に抵抗を続ける。やがて二本松城の急を聞いた蘆名氏や佐竹氏、更に岩城・白河・二階堂・相馬氏ら周辺諸氏も加わった連合軍3万は、仙道(中通り)を奪われる事を恐れ前田沢に布陣した。 11月16日、この情勢を知った政宗は二本松城に備えて杉田・玉井に兵を配し、自身は7千の兵を率いて岩角城に入り、その夜本宮城に入城する。そして翌日自らは観音堂山(日輪寺山)に本陣を置き、伊達成実は瀬戸川館に入り、高倉城には桑折政長・高倉近江らが入った。 数に勝る連合軍は優位に立ち、高倉城は落城、劣勢となった伊達軍は本陣へ退却を始め、この時政宗家臣である鬼庭左月は、政宗を本陣へ逃がす為に後楯となって奮戦、討死した。 日没により本陣陥落を免れた伊達軍であったが、その夜佐竹義政が下僕に刺殺され、また佐竹氏本国である常陸から水戸の江戸重通・安房の里見義頼が留守を攻めようとする動きが伝えられ、優勢だった連合軍は瓦解、本宮城を攻略出来ず兵を退いた。翌年政宗は二本松城を攻略した。 1588年(天正16)4月には政宗と蘆名義広が再び人取橋で合戦しており、激戦の末に蘆名勢は敗走、追撃した伊達勢は首級43を討ち取ったという。 |
本宮城 |
観音堂山(日輪寺) | 瀬戸川館 |