本渡古戦場

本渡古戦場
長崎県天草市本渡町

1589年(天正17)
小西行長・加藤清正×天草種元・志岐麟泉
Mapion
木山弾正惟久墓入口地図

--木山弾正惟久墓--
交通 産交バス「本渡バスセンター」から徒歩10分。
1587年(天正15)豊臣秀吉による九州征伐後、天草五人衆(天草・志岐・大矢野・栖本・上津浦氏)は所領を安堵されるが、1589年(天正17)小西行長の宇土城普請命令を拒否した為、合戦となった。この時大矢野氏・栖本氏は静観したが、志岐城主志岐麟泉(鎮経)と本渡城主天草種元は籠城した。行長は志岐城を攻略するべく兵3千を袋浦へ向けるが、麟泉の夜襲に敗れると、加藤清正・有馬氏らの助勢を得て再び志岐城を攻めた。その際本渡城に客将として在城していた木山弾正惟久は兵500を率いて志岐へ出陣し、仏木坂で迎え撃つが、加藤清正との一騎打ちで討死している。間も無く志岐城が降伏、開城すると、続いて本渡城も小西・加藤連合軍に包囲され、落城、城主天草種元以下1300余人は討死した。
この合戦の際、城内から2・30騎が討って出、敵陣に切り込むが、一人が梅の木に兜の錣が絡み、身動き出来ず討死、首級を挙げると弾正惟久の室お京の方であったという逸話が残されている。付き従う武者も討死するが娘子軍であったといわれ、城下延慶寺にはこれに由来する「兜梅」がある。また後年弾正惟久の遺児横手五郎は父の仇である清正を討つ為、築城人夫に身をやつし、熊本城内に入るが、素性を見破られ、井戸に生き埋めになったといい、五郎が首に掛けて運んだという首掛石が熊本城に残されている。
娘子軍奮戦地碑 兜梅
延慶寺
横手五郎の首掛石
熊本城内

参考文献 「現地案内板」
                          「熊本県の中世城館跡 熊本県教育委員会」
2017年1月