本渡城

本渡城ほんどじょう
熊本県天草市船之尾町
Mapion

--城址碑--
別名 本砥城・本戸城
交通 産交バス「本渡バスセンター」から徒歩15分。
築城年代     
築城者 天草氏
形式 山城
主な城主 天草種元
築城年代は不明だが、発掘された陶磁器から14世紀頃には城としての機能を果たしていたと考えられている。
天草氏は大宰府府官の大蔵姓原田氏の流れを汲むとされ、1233年(貞永2)天草種有が所領である本砥島地頭職を息女播磨局に譲った記録が初見である。
やがて天草氏は鎌倉幕府執権北条氏に所領を寄進し、その代官として権威を振るう志岐城主志岐氏と対立するようになり、1313年(正和2)志岐弘円(景弘)に地頭職を奪われた。
1333年(元弘3)鎌倉幕府滅亡後、後ろ盾を失った志岐氏は足利方に付き、地頭職を安堵されるが、天草氏分家である河内浦氏は本渡城に立て籠もり、本渡を回復すると天草氏を称し、南朝方守護菊池氏と繋がり、勢力を伸ばした。
戦国時代に入り、天草は天草五人衆(天草・志岐・大矢野・栖本・上津浦氏)と呼ばれる勢力が対立・抗争を繰り返した。天草氏は志岐氏領に進出するが、菊池武運の調停により退くと、本渡は志岐氏の手に渡った。しかし1530年(享禄3)天草尚種の時、町山口川合戦で志岐氏に勝利し、本渡を奪回すると、五人衆の中で最も有力な勢力となる。
1587年(天正15)豊臣秀吉による九州征伐後、五人衆は所領を安堵されるが、1589年(天正17)小西行長の宇土城普請命令を拒否した為、合戦となった。同年志岐城主志岐氏は降伏、開城し、本渡城も落城、城主天草種元以下1300余人は討死した。戦後生き延びた天草一族は行長に仕えたものとみられる。
城域について明確ではなく、天草キリシタン館が建つ高台と殉教公園を中心とした範囲を城域とする説や天草伊豆守種元碑が立つ丘陵を中心に明徳寺や天草高校付近までの広域を範囲とする説等があるが、天草キリシタン館付近が本渡城の中枢であったと考えられている。
殉教公園 千人塚 城址碑
キリシタン墓地 天草キリシタン館 弾正社
一の丸 一の丸に立つ天草伊豆守種元碑 明徳寺方面へ続く切通道

参考文献 「現地案内板」
                          「熊本県の中世城館跡 熊本県教育委員会」
                          「福岡・熊本・鹿児島の城郭 新人物往来社」
訪城回数 1
2017年1月