志岐城

志岐城しきじょう
熊本県天草郡苓北町志岐
Mapion

--本丸--
別名      
交通 産交バス「本渡バスセンター」からバス「シープル前」下車。
バス停から徒歩20分。
築城年代 鎌倉時代
築城者 志岐氏
形式 山城
主な城主 志岐麟泉(鎮経)
志岐氏は1205年(元久2)志岐六ヶ浦地頭に任ぜられた菊池氏一族藤原光弘がこの地に在住し、志岐氏を称した事に始まるとされる(弘家の頃とも)。
志岐弘円(景弘)の時、鎌倉幕府執権北条氏に所領を寄進すると、その代官として勢力を伸ばし、1313年(正和2)本渡城主天草氏から総領職を奪い、その後長く対立するようになる。
1587年(天正15)豊臣秀吉による九州征伐後、天草五人衆(天草・志岐・大矢野・栖本・上津浦氏)は所領を安堵されるが、1589年(天正17)小西行長の宇土城普請命令を拒否した為、合戦となった。この時大矢野氏・栖本氏は静観したが、志岐麟泉(鎮経)と本渡城主天草種元は籠城した。行長は志岐城を攻略するべく兵3千を袋浦へ向けるが、麟泉の夜襲に敗れると、加藤清正・有馬氏らの助勢を得て再び志岐城を攻めた。その際本渡城に客将として在城していた木山弾正惟久は兵500を率いて志岐へ出陣し、仏木坂で迎え撃つが、加藤清正との一騎打ちで討死している。間も無く志岐城が降伏、開城すると、麟泉は島津氏を頼り薩摩出水へ逃れ、一族は小西氏に仕えたという。
現在城址は志岐城公園として整備されており、本丸下まで車道が通じている。公園化により改変されている箇所も多いようだが、本丸南側に規模の大きい堀切が残されており、一部石積みも見られる。
三の丸 二の丸 本丸土塁上に立つ祠
本丸南曲輪
正面が本丸
本丸南堀切 城址から北・富岡半島方面
正面に富岡城が見える

参考文献 「現地案内板」
                          「熊本県の中世城館跡 熊本県教育委員会」
                          「福岡・熊本・鹿児島の城郭 新人物往来社」
訪城回数 1
2017年1月