神奈川県海老名市上今泉2丁目 井戸坂地図 --井戸坂-- |
別名 | 今泉城 |
交通 | 小田急線「海老名駅」から徒歩25分。 |
築城年代 | 鎌倉時代 |
築城者 | 今泉氏 |
形式 | 館 |
主な城主 | 一色伊予守六郎 |
武蔵七党の一つで、横山党に近い猪俣党の祖時資から7代目伊予僧都を祖とし、海老名館主海老名氏と同族である今泉氏館跡。1221年(承久3)承久の乱における宇治川合戦の際、今泉七郎らの名が見える。 1437年(永享9)上杉憲実と鎌倉公方足利持氏の対立に端を発する永享の乱において、敗れた持氏が鎌倉永安寺で自刃すると、1440年(永享12)1月11日、持氏方であった一色伊予守六郎は「今泉館」に籠もった。しかし長尾出雲守憲景・太田備中守資光が攻め寄せると、伊予守は今泉館から常陸の結城氏朝を頼り逃れた。そして同年4月持氏の遺児を巡る結城合戦において、伊予守は幕府軍と戦い、厚木掃部介らと共に討死したとされる。 館址と推定される台地上は宅地化により遺構は全く見当たらないが、今泉氏が茶の湯の水を汲みあげた殿井戸が麓にあったとされ、井戸坂の名が残されている。また落城の際、身重であった一色伊予守室である護王姫は城を逃れるが、途中警護の武士が討たれた坂を「かいな坂(甲斐ない坂)」と呼び、護王姫が丘陵を越え、子を生んだ所を「産川」、敵兵に赤子を捨てられた所を「子捨橋」等と称する伝承地も残されている。 一色伊予守が籠もった「今泉館」にまつわる伝承は秦野市今泉にも残されており、詳細は不明である。 |
南西から遠望 中央付近が館址 |
かいな坂 |
護王姫碑 |