1556年(弘治2) 織田信長×林秀貞・柴田勝家 --案内板・庚申塚-- |
交通 | 名古屋市営地下鉄鶴舞線「庄内通駅」から徒歩5分。 |
1552年(天文21)父信秀没後、跡を継いだ那古野城主織田信長は、1555年(弘治1)主筋である織田信友を討ち、新たな本拠として清洲城に入城した。 1556年(弘治2)信長の弟である末森城主織田信行(信勝)は林秀貞や柴田勝家らの支持の下、信長に反旗を翻した。 8月22日、信長はこれに備える為、名塚砦を築いて佐久間盛重に守らせる。24日名塚砦は信行方に攻められたが城兵は善戦して良く守り、その後急を聞いて清洲城を出陣した信長は7百を率いてこの稲生原で林・柴田ら1千7百と激しく争った。信長自ら槍を手に林通具を討つ等、合戦は信長の勝利に終わった。 戦後林秀貞・柴田勝家らは許され、信行も母土田御前の嘆願により一度は許されたが、翌年龍泉寺城を築き、再び反抗の気配を見せた為、清洲城で討たれた。 織田一族の内紛を治めた信長は、以後尾張の支配権を確立していく事となった。 名塚砦跡である白山神社から南200メートル程に案内板と合戦の死者を祀ったものといわれる庚申塚がある。 |