神奈川県横浜市磯子区磯子8丁目 --真照寺-- |
別名 | 平子平右馬允屋敷・平楽城 |
交通 | JR根岸線「根岸駅」から徒歩20分。 |
築城年代 | 平安時代末期 |
築城者 | 平子平右馬允 |
形式 | 平地構・丘城 |
主な城主 | 平子氏 |
この地は鎌倉時代から江戸時代初期頃まで平子郷、平楽郷と呼ばれ、平子氏が後北条氏時代まで支配していた。源頼朝の御家人として活躍した平子平右馬允有長は真照寺を再興し、また1193年(建久4)頼朝が富士の巻狩りの折、曽我十郎と最初に太刀を交えた人物でもある。 有長の弟経長は石川氏を名乗り、平子氏は分家石川氏と共に代々続いて行くが、その後経長の後裔は越後国地頭職に任ぜられ、越後平子氏は守護上杉家重臣となっている。 一方磯子平子氏はこの磯子城に居住し、室町時代後期には足利持氏の近習として活躍したとされ、やがて扇谷上杉氏に従った。 1512年(永正9)磯子に後北条氏の勢力が及ぶようになると、早雲・氏綱は平子房長に対し、連名をもって一帯の支配を認め、北条家家臣の干渉を禁じると共に、従うよう命じている。しかしこの頃には平子氏領地である蒔田には吉良氏、また南方の笹下には間宮氏がおり、やがて平子氏の領地は吉良氏が大半治める事となった。北条氏が江戸に進出した後、平子氏はこの地を追われたものと考えられる。 腰越公園付近(旧腰越山)には海賊を防ぐ為の陣城があったといい、また真照寺境内を含む一帯が館跡とされるが、付近は宅地化され、遺構は残されていない。 |