福岡県北九州市小倉北区城内 --天守閣-- |
別名 | 勝山城・勝野城・指月城・湧金城・鯉ノ城 |
交通 | 各線「西小倉駅」から徒歩10分。 |
築城年代 | 1602年(慶長7) |
築城者 | 細川忠興 |
形式 | 平城 |
主な城主 | 高橋鑑種・毛利勝信・細川忠興・小笠原忠真 |
小倉城の歴史は古く、1264〜1274年(文永年間)頃、緒方大膳亮惟重が居城した事に始まるといい、1308〜1310年(延慶年間)孫の惟尚が城主の頃、水原備中守定充に滅ぼされたという。 1330年(元徳2年)黒崎土佐守景経が居城するが、1334年(建武1)長野貞家に攻められ自害、貞家が居城とする。その子教家の頃、大内氏に攻められ、それからは大内氏の持城となる。 その後も度重なる戦乱の中、小倉城主は目まぐるしく代わり、1570年(永禄13)高橋鑑種が城主となる。 1587年(天正15)豊臣秀吉による九州征伐の際、鑑種の養子元種は開城し、秀吉が一時入城している。九州平定後、豊前国2郡6万石を与えられた毛利勝信が入城、元種は日向国縣(延岡)へ移った。 1600年(慶長5)関ヶ原合戦後、西軍に属した毛利勝信・勝永父子は改易となり、代わって丹後国田辺城から細川忠興が入部した。忠興は初め中津城に在城するが、1602年(慶長7)居城を小倉城に変更し、大改修を行った。1620年(元和6)忠興は嫡男忠利に家督を譲り、翌年再び中津城に移った。 1632年(寛永9)肥後国熊本城主加藤忠広が改易となると、忠利は鶴崎2万石を加え、54万石で熊本城へ移った。代わって播磨国明石城から小笠原忠真が入城し、以後明治に至るまで10代小笠原氏が代々続いた。 |
北水掘 | 天守閣 | 大手門脇石垣 |
槻門跡 | 井戸跡 | 鉄門跡 |
本丸西堀 | 多門口門跡 | 本丸北堀 |