沖田畷古戦場

沖田畷古戦場
長崎県島原市北門町

1584年(天正12)3月24日
島津家久・有馬晴信×龍造寺隆信
Mapion

--隆信が没した地点を示す碑--
交通 島原鉄道線「島原駅」から徒歩30分。
1578年(天正6)高城川合戦で島津義久が大友宗麟を破ると、九州の覇権争いは義久と龍造寺隆信に絞られる事となる。
1582年(天正10)有馬晴信は龍造寺氏に背き、島津氏と結んで深江城を攻めた。この時は隆信の援軍もあり、失敗に終わるが、翌年安徳城の安徳純俊までも龍造寺氏に背いた。
1584年(天正12)3月13日、義久は弟家久に命じ、援軍3千を渡海させ、安徳城に入れた。18日隆信も6万の大軍を率いて須古城を発し、島原半島北端の神代湊に着いた。
24日両軍は沖田畷で対峙するが、この地は当時胸まで浸かる程の泥田地帯で、中央に細い一本道があるだけであった。寡兵であった島津・有馬軍は中央の細道を木戸で塞ぎ、島津家久、赤星統家、伊集院忠棟、新納忠元が陣し、山側には猿渡信光、海側にも伏兵を置き、更に海上には13艘の船を配置していた。
大軍であった隆信は数に任せて中央突破を試みるが、龍造寺勢は泥田に足をとられ、壊滅状態に陥った。島津勢は次々と切り崩し、隆信や江里口信常・円城寺信胤・成松信勝・百武賢兼の龍造寺四天王等は討死、山側でも死闘が繰り広げられていたが、隆信の討死により退却を開始し、島津・有馬方の圧勝に終わった。
以後龍造寺氏は衰退し、やがて鍋島氏にとって代わられ、島津氏は九州北部へと侵攻していく事となる。

参考文献 「歴史群像シリーズ 学研」
       「戦国合戦事典 PHP文庫」
2011年9月