梶原景時屋敷

梶原景時屋敷かじわらかげときやしき
神奈川県鎌倉市十二所
Mapion

--梶原の井--
別名          
交通 JR横須賀線「鎌倉駅」から徒歩40分。
築城年代 平安時代末期
築城者 梶原景時
形式 屋敷
主な城主 梶原景時
平氏出身で、鎌倉五郎景清の子梶原景時屋敷跡。
1180年(治承4)8月、伊豆に挙兵した源頼朝が相模国土肥郷に進出すると、景時は平家方として、これを迎え撃つべく石橋山に対峙した大庭景親軍に加わるが、合戦に敗れ、椙山の洞窟に隠れていた頼朝を見逃したと伝わり、その後鎌倉入りを果たした頼朝に重用された。
1184年(寿永3)2月、一ノ谷合戦において、景時は源範頼率いる大手軍の侍大将として活躍するが、その後屋島合戦、そして壇ノ浦合戦の際、源義経と対立し、これを頼朝に讒言した。この事が頼朝による義経追討の一つの契機になったとされる。
頼朝死後、1199年(建久10)10月、景時は有力御家人の弾劾を受け、弁明の機も得られるまま一之宮に下向。再度鎌倉に戻るものの、12月、鎌倉追放が決まり、鎌倉の屋敷は取り壊された。翌年1月20日、景時とその一族は朝廷や西国武士団の支援を軸に再起を図ろうと、一之宮館を後に京へ向け出立するが、その途上駿河国狐ヶ崎において吉川氏渋川氏ら在地武士に討たれた。また景時退去後、取り壊された屋敷の材木は修理中であった永福寺の用材として使われたという。
明王院西側にある谷戸「梶原ガ谷」が屋敷跡とされ、最奥部に梶原の井戸が残されている。また鎌倉北西の「梶原」は所領地で同様に屋敷があったとされ、この十二所の屋敷は別業ともいわれる。

参考文献   「新編 鎌倉事典 文芸社」
             「武家の古都 鎌倉を歩く 祥伝社」
訪城回数 1
2016年1月