1184年(寿永3)2月7日 源範頼・源義経×平知盛・平重衡 --戦の濱碑-- |
交通 | 山陽電鉄本線「須磨浦公園駅」から徒歩5分。 |
1184年(寿永3)1月、源頼朝の命を受けた源範頼・源義経率いる東国勢は入京し、宇治川・粟津原において源義仲を破った。一方前年、義仲に京を追われた平氏は九州を経て讃岐屋島へ逃れていたが再起し、福原を奪回すると、上洛を目指して東は生田口(東門)、北は夢野口(北門)、西は塩屋口(西門)までの一帯に厳重な防備を施し布陣した。 源氏は山陽道を進む範頼率いる大手軍5万と丹波を経て須磨に至る義経率いる別働軍1万に分かれ京を発した。2月7日早朝、生田に着陣した大手軍と塩屋に着陣した土肥実平・熊谷直実率いる別働隊は一斉に攻撃を開始した。不意をつかれるも良く応戦した平氏軍であったが、別働軍から分かれていた義経率いる70余騎が一ノ谷城裏手から崖を降って奇襲すると、平氏軍は混乱し、やがて総崩れとなり、平重衡は捕らわれ、平忠度・平経正・平敦盛等、多くの大将が討死した。翌年平氏は屋島合戦、そして壇ノ浦合戦に敗れ、滅亡した。 この合戦で海上に馬を乗り入れ、沖へ逃れようとする若干16才の平敦盛を熊谷直実が呼び戻して討ち、その後直実は少年敦盛を討った事に無常を感じて出家したという史話は良く知られ、須磨寺には敦盛首塚や首洗い池があり、2人の像が立てられている。 |
敦盛塚 |
熊谷直実・平敦盛像 須磨寺 |
平敦盛像 須磨寺 |
義経腰掛松・敦盛首洗池 須磨寺 |
敦盛首塚 須磨寺 |
平重衡とらわれの松跡碑 |