鶴首城

鶴首城かくしゅじょう
岡山県高梁市成羽町下原
Mapion
登山口地図

--五の壇堀切--
別名           
交通 JR伯備線「備中高梁駅」からバス「成羽」下車。
地図の地点、成羽小南側に登山口があります。
築城年代 1533年(天文2)頃
築城者 三村家親
形式 山城
主な城主 三村氏
平安時代末期、源頼朝により成羽地頭職に任ぜられた河村秀清が、1189年(文治5)に築城したと伝えられる。
1533年(天文2)星田から成羽に進出した三村家親がこの城砦を改築、拠点とした。当時尼子氏勢力下にあった備中制覇を目指す家親・元親父子は、1553年(天文22)毛利氏と結んで猿掛城主庄為資を、そして1560年には松山城主庄高資を攻略し、翌年松山城に入城すると、鶴首城には弟親成・親宣父子が置かれた。
備中をほぼ制圧した家親は更に備前・美作攻略に乗り出すが、1556年(永禄9)興禅寺での軍議中、宇喜多直家の刺客に鉄砲で撃たれ暗殺された。1567年(永禄10)父を討たれた元親は直家と雌雄を決すべく戦いを挑むが、明禅寺合戦で大敗すると、以後衰退の一途を辿る事となる。成羽に逃れた元親は再び鶴首城を本拠として勢力の回復を図り、松山城を奪還するが、この頃父の仇である宇喜多氏と和睦した毛利氏から離れた元親と、それに反対し、毛利氏に従った親成・親宣父子とで家中は分裂した。親成・親宣父子は毛利氏先手となって三村氏諸城を次々と攻略し、1575年(天正3)三村親重が守る鶴首城も落城、そして松山城を逃れた元親も自刃し、鶴首城は毛利氏より先手を務めた親成に与えられた。「備中兵乱
1600年(慶長5)関ヶ原合戦で戦功を挙げた岡越前守家俊が鶴首城に入城するが、1614年(慶長19)大坂の陣に おいて、長男が豊臣方に与した為、切腹となった。
1617年(元和3)成羽藩主となった山崎家治が入部するが、鶴首城は廃城となり、麓に陣屋が設けられ、明治を迎えた。
標高338メートル鶴首山頂の主郭(一の壇)を中心とし、東西にそれぞれ曲輪を並べた七の壇から成る比較的単純な連郭式山城。一の壇周囲は石垣が築かれていたようで、残石が散乱している。ここから南西に三〜五の壇と続いて堀切が確認出来、更に進むと「武士池」と呼ばれる溜め井があるようだが未見。
太鼓丸 登山道途中に建つ稲荷 二の壇
二の壇石垣 一の壇 三の壇・正面が一の壇
一の壇・三の壇間に残る石積み 四の壇 五の壇

参考文献 「岡山の山城を歩く 吉備人出版」
        「広島・岡山の城郭 新人物往来社」
訪城回数 1
2015年1月