埼玉県児玉郡上里町大字金久保 --城址碑-- |
別名 | 太琊城・金窪陣屋 |
交通 | JR高崎線「神保原駅」から徒歩25分。 |
築城年代 | 1177〜81年(治承年間) |
築城者 | 加治家季 |
形式 | 平城 |
主な城主 | 加治氏・畑時能・斎藤氏 |
1177〜81年(治承年間)武蔵七党の一つ丹党に属し、高麗郡加治荘を本拠とした加治氏の加治家季により築かれたといわれ、1331〜34年(元弘年間)新田義貞家臣である畑時能や長浜六郎左衛門が居城したと伝えられる。 1521〜28年(大永年間)長井斎藤別当実盛の子孫である斎藤盛光が居城し、定光・定成・定利と続き、後北条氏に従った。 1582年(天正10)6月、神流川合戦の際、滝川一益に攻められ落城した。一益は後北条氏を金窪に迎え、神流川で戦ったが、19日大敗し、城主定利の叔父である光透は討死し、金窪城も焼失した。 1590年(天正18)豊臣秀吉による小田原攻め後、徳川家康が関東へ入国すると、河窪信実(武田信玄の異母弟)の子である河窪信俊が比企・賀美二郡に知行地を改められ、賀美郡内のこの金窪城址にも陣屋を設けた。1698年(元禄11)信俊の孫である信貞の時、丹波国に移封となり、金窪陣屋は廃された。 城址は大半が住宅地・城址公園となり、一部土塁を残すのみとなる。南西に建つ陽雲寺には金窪城主と伝わる畑時能墓所が在る。また南東に建つ金窪八幡神社は1525年(大永5)金窪城主斎藤盛光が鎌倉の鶴岡八幡宮を城内に勧請した事に始まるという。 |
西側を流れる水路 | 城址公園南 | 城址公園 |
城址公園東 | 北側を流れる忍保川 | 金窪八幡神社 |