埼玉県児玉郡上里町大字金久保 --陽雲寺-- |
別名 | |
交通 | JR高崎線「神保原駅」から徒歩25分。 |
築城年代 | 1492年(明応1) |
築城者 | 大畠昌広 |
形式 | 平城 |
主な城主 | 大畠氏 |
元々この地には1205年(元久2)創建とされる満願寺が在ったが、1492年(明応1)大畠昌広がこの地を領するに際し、満願寺は他所に移され、城砦化されたという。大畠氏は3代30余年で滅びたとされ、その後1521〜28年(大永年間)長井斎藤別当実盛の子孫である斎藤盛光が金窪城を再築すると、南城は廃されたといわれる。盛光はこの地に崇栄寺を創建するが、1582年(天正10)6月、神流川合戦で焼失したとされる。 1590年(天正18)豊臣秀吉による小田原攻め後、徳川家康が関東へ入国すると、河窪信実(武田信玄の異母弟)の子である河窪信俊が比企・賀美二郡に知行地を改められ、賀美郡内の金窪城址にも陣屋を設けた。この時信俊により再興され、自身の養母で信玄夫人であった陽雲院の名を取って陽雲寺と改められた。 境内北側に隅を欠いた土塁・空堀が一部残されているが、その構造から城の範囲は更に広範に及ぶと考えられており、神流川合戦の際、陣所として利用された事も推定される。また境内には陽雲院・金窪城主であった畑時能墓所がある。 |
陽雲院墓 | 武田家遺臣招魂碑 | 畑時能墓 |