群馬県高崎市木部町 --心洞寺-- |
別名 | 木部城 |
交通 | 関越自動車道「高崎IC」から車で15分。 |
築城年代 | |
築城者 | 木部氏 |
形式 | 館 |
主な城主 | 木部範虎・貞朝 |
源範頼の孫である吉見二郎義世の後裔と称する木部氏は元々岩見国木部郷に在ったが、木部範時の娘が古河公方成氏の室であった為、関東に移り、この地に住したとされる。 1557年(弘治3)から甲斐国武田信玄の上野国侵攻が開始されると、箕輪城主長野業政の娘を室とする木部範虎は業政に従って各地を転戦するが、1563年(永禄6)信玄がこの地に陣して倉賀野城を攻めている事から範虎・貞朝父子はこの頃までに箕輪城に逃れたものと思われる。 1566年(永禄9)箕輪城落城後、範虎は武田氏に従い、1582年(天正10)武田勝頼が天目山で自害すると範虎も殉じた。貞朝は滝川一益、次いで後北条氏に従い、1590年(天正18)豊臣秀吉による小田原攻め後、北条氏直等と共に高野山に向かい、後に大坂に出て没したという。 心洞寺境内が居館跡とされ、土塁が残されている。また南西、字丸の内付近が城跡とされるが宅地化により遺構は見当たらない。 |
山門脇に残る土塁 | 木部駿河守範虎廟所 | 字丸の内付近 |