群馬県高崎市箕郷町東明屋 --三の丸南西石垣-- |
別名 | |
交通 | 各線「高崎駅」からバス「箕郷本町」下車。 |
築城年代 | 1505年(永正2)頃 |
築城者 | 長野業尚(尚業) |
形式 | 平山城 |
主な城主 | 長野業正・井伊直政 |
1505年(永正2)頃、長野業尚により築城され、憲業・業正(業政)・業盛の4代、長野氏が居城した。 1552年(天文21)山内上杉憲政が後北条氏により平井城を追われた後も、長野業正は白井・忍・安中・小幡と婚姻関係を結び、西上野における盟主的な存在となる。 1566年(永禄9)武田信玄率いる2万の軍勢は西上野侵攻を開始、高浜の砦を落とし、箕輪・鷹留間を分断すると、鷹留城は武田勢に攻められ落城した。長野勢は若田原に出撃するが衆寡敵せず敗れると、業盛は全兵力を箕輪城に集め、籠城した。しかし大軍の武田勢に攻められ、9月29日箕輪城は落城、長野業盛以下一族郎党は御前曲輪にて自刃し、長野氏は滅亡した。これにより西上野一帯はほぼ武田氏が領する事となった。箕輪城には内藤昌豊が置かれ、西上野の拠点となる。 1582年(天正10)9月25日、武田氏滅亡後、箕輪城は滝川一益、次いで北条氏邦が領有した。 1590年(天正18)豊臣秀吉による小田原攻め後、徳川家康が関東へ入国すると、箕輪城には井伊直政が12万石で入城し、改修が行われたが、1598年(慶長3)高崎城を築いて移ると廃城となった。 |
搦手口 | 郭馬出南堀 | 復元された郭馬出西虎口門 |
二の丸から見る郭馬出 | 二の丸・郭馬出間堀・土橋 | 二の丸 |
本丸 | 本丸北土塁 | 本丸・御前曲輪間堀 |
御前曲輪 | 御前曲輪・井戸 | 御前曲輪・西虎口 |
御前曲輪・通仲曲輪間堀 | 稲荷曲輪・新曲輪間堀 | 新曲輪 |
丸馬出 | 本丸・蔵屋敷間木橋 | 蔵屋敷 |
本丸・三の丸間堀 | 三の丸 | 三の丸南西虎口・石垣 |
鍛冶曲輪 | 鍛冶曲輪石垣 | 白川口埋門跡 |
大手口・丸戸張 | 大手尾根筋・腰曲輪 | 東外堀 |