1582年(天正10) 武田勝頼×織田・徳川氏 --姫が淵碑-- |
交通 | JR中央本線「甲斐大和駅」から徒歩30分。 |
1575年(天正3)長篠の敗戦以後、武田軍の勢力は次第に弱まり、1581年(天正9)高天神城が落城した。それは武田の衰えを内外に知らしめる事であった。 武田勝頼は自国防衛の必要性から真田昌幸普請の下、新府城を築き、同年12月躑躅ヶ崎館から移った。 1582年(天正10)2月、信州木曽谷の木曽義昌が武田に叛き、織田信長方に走った。これに勝頼自身が2万の兵を率い出陣するも、木曽・織田・徳川・北条連合軍進撃の報を知り新府城へ引き返す。 3月1日親類衆筆頭、江尻城主穴山梅雪までも叛き徳川方に応じる。迫り来る織田・徳川連合軍を前に急遽築城した新府城はすべてが不備で、3日勝頼は在城僅か2ヶ月余りであった新府城に火を放ち、小山田信茂の言を取り入れ岩殿城を目指した。この時真田昌幸は勝頼を岩櫃城に迎えようとしたが、信茂が譜代の臣であった為、岩殿城に向かったという。 しかし駒飼で信茂の離反に遭い、11日止む無く日川沿いに天目山を目指すが、ここで土民や織田軍に見つかり、勝頼一行は自刃、討死した。 |
四郎作古戦場碑 | 景徳院 武田勝頼生害石 |
景徳院 左から武田信勝・勝頼・北条夫人墓 |
景徳院 没頭地蔵尊 |
土屋惣蔵片手切り碑 | 大蔵原思案石 |