駒城

駒城こまじょう
茨城県下妻市黒駒
Mapion

--土塁上に立つ城址碑--
別名 駒館
交通 関東鉄道常総線「騰波ノ江駅」から徒歩50分。
築城年代 南北朝時代か
築城者 平方氏か
形式 平城
主な城主 藤原実寛・平方宗貞
築城年代は不明だが、結城城主結城氏庶流である平方氏により築かれたと考えられる。
1338年(暦応1)11月、東国の南朝勢力拡大を図り、小田城に入城した北畠親房に呼応し、駒城には中御門少将藤原実寛・平方宗貞が拠った。
1339年(暦応2)足利尊氏の命を受け、常陸に進出した高師冬は「飯沼楯」を築くと、10月、この駒城攻撃を開始した。しかし実寛は良く守り、駒城は落ちなかった。
1340年(暦応3)1月、関城から関宗祐、小田城から春日顕国が来援し、一進一退の攻防が行われた。5月27日、遂に駒城は落城し、実寛は捕らわれるが、その日の夜、南朝方は奇襲により駒城を奪還し、更に「飯沼楯」を攻略すると、高師冬は古河・宇都宮を経て瓜連城へ逃れた。
その後の駒城の動向は不明だが、1341年(暦応4)6月、瓜連城で軍容を整えた高師冬は小田城を攻め、11月、親房は関城に移っている事からこの頃までに落城したものと思われる。
城址の大半は宅地や畑となるが、北西部にあたる雑木林に城址碑・案内板が立ち、僅かに土塁・空堀が残されている。また南東にも土塁と思われる盛土があり、「駒の墓」と記された石碑が立つ。
北西部に土塁が残る 案内板 土塁
城址 Mapion
東に立つ石造五輪塔
南北朝期のものとみられるが、
駒城との関連は不明
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駒の墓碑

参考文献 「図説 茨城の城郭 国書刊行会」 
     「関城跡 関城町教育委員会」
訪城回数 1
2019年5月