関城

関城せきじょう
茨城県筑西市関舘
Mapion

--土塁--
別名      
交通 関東鉄道常総線「騰波ノ江駅」から徒歩15分。
築城年代 1192年(建久3)
築城者 関朝泰
形式 平城
主な城主 関宗祐・宗政
1192年(建久3)結城城主結城朝広4男である朝泰が関荘の地を相続して築いた事に始まる。
南北朝時代、関城は常陸国における南朝方の拠点となる。1338年(暦応1)5月、和泉国石津合戦で北畠顕家が、7月には越前国燈明寺畷合戦で新田義貞が敗死し、南朝方が劣勢になると、9月、北畠親房は東国の南朝勢力拡大を図り、伊勢国大湊を出航した。しかし遠州灘で暴風雨に遭い、義良親王(後村上天皇)は尾張に、宗良親王は遠江白羽湊に漂着した。また北畠顕信と共に奥州へ向かう予定だった結城宗広は伊勢吹上浦に戻され、同地で病没した。辛うじて目的地である常陸東条浦に上陸した親房は関城主関宗祐や小田城主小田治久らに迎えられて東条氏の神宮寺城に入城した。しかし11月、佐竹・鹿島・鎌田氏らに攻められ落城すると阿波崎城を経て小田氏の本拠である小田城へ移った。
1339年(暦応2)足利尊氏の命を受け常陸に進出した高師冬は「飯沼楯」を築き、1340年(暦応3)平方宗貞・中御門少将藤原実寛が守る駒城を攻め落とすが、南朝方は即日奪還し、「飯沼楯」を攻略すると、高師冬は古河・宇都宮を経て瓜連城へ逃れた。
1341年(暦応4)6月、瓜連城で軍容を整えた高師冬は小田城を攻め、11月、治久が降伏・開城すると親房は関城に移り、この地は政治・軍事上の南朝方の中心となった。また親房は後醍醐天皇の跡を継いだ後村上天皇に南朝の正統性を述べる「神皇正統記」を関城にて加筆し完成させている。
大宝沼(現存しない)を挟み、南方の下妻政泰・春日顕国が拠る大宝城と連携し、北朝方に抵抗するが、1343年(康永2)11月、高師冬の総攻撃を受け、大宝城と共に落城、関宗祐・下妻政泰は討死した。春日顕国はその後も常陸国内を転戦するが、親房は吉野に没落し、東国における南北朝対立は事実上終結した。
1454年(享徳3)古河公方足利成氏の命で上杉憲忠を討ち、その功績で関荘三十三郷を与えられた多賀谷氏により、関城合戦以降、放置されていた関城は修改築され、関郡地域の抑えと下妻城北の守りとしての役割を担ったと考えられる。
城址の大半は宅地や畑となるが、関宗祐墓所や八幡神社付近に空堀や土塁が確認出来る。また高師冬が物見櫓を攻め落とす為に掘った坑道や落城寸前に宇津峰城に向かう守永親王の為、将士が別れの宴を催した大将山が残されている。
関宗祐墓所 土塁 土塁・空堀
八幡神社 坑道跡 東外館
守永親王別宴之地碑 北西から城址遠望 北畠親房追懐之標碑

参考文献 「図説 茨城の城郭 国書刊行会」 
            「茨城・栃木・群馬の城郭 新人物往来社」
訪城回数 1
2019年5月