1572年(元亀3) 武田信玄×徳川家康 --三方ヶ原古戦場碑-- |
交通 | JR東海道本線「浜松駅」からバス「三方原墓園」下車。 三方原墓園駐車場に古戦場碑があります。 |
1572年(元亀3)遠江諸城を制圧し上洛を目指す武田信玄は、11月19日二俣城を攻略した。その前後信玄は本陣を野部(磐田郡豊岡村)に移し、同地に一ヶ月余り滞在していたが、12月21日武田軍2万5千は進軍を開始。天竜川を渡ると秋葉街道を南下し、徳川家康軍8千・織田信長援軍3千が籠もる浜松城へと向かった。 しかし武田軍は浜松城手前、欠下付近で西へと進路を変え三方ヶ原台地に上がると北西、祝田方面へと向かった。これは家康を浜松城から誘い出す作戦であった。 家康は祝田の坂を下る武田軍を追い落とす作戦を立て浜松城を出陣したが、武田軍は祝田の坂手前で反転し、魚鱗の陣を敷き待ち受けていた。 これに家康は鶴翼の陣で対するが、合戦は一方的な敗戦となり、家康は浜松城へ逃れた。 その後武田軍は刑部に転進し、ここで反信長派諸大名に戦勝報告をすると、翌年三河に進んで野田城を攻略した。しかしこの攻城中に信玄は病を発し、療養の為、長篠城に入る。武田軍は信濃方面に引き上げを開始するが、その途中伊奈谷駒場で信玄は53歳で没した。 犀ヶ崖 三方原で敗れ、浜松城へ敗走した徳川家康はその夜、犀ヶ崖北に宿営していた武田軍の一隊に夜襲を決行した。 大久保忠世・天野康景らは諸隊から100人余の鉄砲足軽を招集し、最も前面に在った穴山信君隊に鉄砲を撃ちかけた。地理に暗い武田軍は逃げ出す際、犀ヶ崖に落ち、多数の死者を出したという。 |
本多肥後守忠真碑 本多忠勝の叔父にあたる忠真は 敗戦に際し、殿を務め、討死した |
犀ヶ崖 |
浜松城 |