愛知県新城市豊島 --空堀-- |
別名 | |
交通 | 東名「豊川IC」から車で20分。 |
築城年代 | 1505年(永正2) |
築城者 | 菅沼定則 |
形式 | 丘城 |
主な城主 | 野田菅沼氏 |
野田菅沼氏は1505年(永正2)田峯城を本拠とする山家三方衆の一人、田峯菅沼定忠の3男定則が富永氏の後継として野田館に入った事に始まる。間も無く野田館が度々水害に悩まされた事からこの地に野田城を築いて移った。 定則以来、野田菅沼氏は今川氏に従っていたが、1560年(永禄3)桶狭間合戦後、定盈は徳川家康方に転じた為、翌年今川氏真は吉田城代小原鎮実に野田城を攻めさせた。定盈は和議を結び、野田城を開城すると、西郷正勝の下へ逃れた。1562年(永禄5)定盈は野田城を奪還するが、この戦いで野田城が大破した為、城所浄古斎の旧砦を拡張して大野田城とし、一時本拠とすると、野田城の修築を開始した。 1571年(元亀2)足助城を落とした武田信玄は作手から大野田城を攻めると、定盈は城に火を放って退却し、その後再びこの野田城を本拠とした。 1572年(元亀3)12月22日、三方ヶ原合戦で家康を破った武田信玄は、1573年(天正1)1月、そのまま東三河攻略を開始し、定盈と家康援軍の将松平忠正以下400人が籠もる野田城は攻撃を受けた。20日余の攻撃に耐える野田城に対し、武田軍は金堀り人夫を動員して井戸水を抜いた為、降伏・開城した。信玄は捕虜にした定盈・忠正両将を山家三方衆が徳川方に出していた人質と交換したとされる。 この合戦の最中、城兵の村松芳休の笛の音に聞き惚れた信玄が本陣から城に近づいた時、鳥居三左衛門が鉄砲で深手を負わせ、これが元で信玄は死去したという伝説が伝わる。 |
土橋 | 本丸に立つ城址碑 | 本丸・井戸 |