島根県益田市三宅町 --館址・西土塁-- |
別名 | 益田三宅御土井居館 |
交通 | 各線「益田駅」から徒歩25分。 |
築城年代 | 1368〜75年(応安年間) |
築城者 | 益田兼見 |
形式 | 館 |
主な城主 | 益田元祥 |
益田氏は、平安時代後期に石見国府の国司として下向してきた藤原鎌足の子孫といわれる兼国を祖とし、この兼国が石見に土着し、4代兼高以降益田氏を称した。 益田氏11代兼見は山口の大内氏と結び、石見の豪族の指導的立場を確立し、益田氏15代兼堯は応仁の乱等で武功を挙げる一方、文化への深い理解者でもあり、大内氏の保護下に在った雪舟を益田に招いている。 1551年(天文20)大内義隆を討った陶晴賢と縁戚関係にあった益田氏は、毛利氏や津和野城主吉見氏等、周辺勢力と対立するが、益田氏19代藤兼は吉川元春を仲介として毛利氏と和睦した。 その後益田氏は毛利氏に重用され、萩の沖合の見島や博多湾の一部も領有し、益田川河口の今市付近を拠点として独自の海上貿易も行っていた。 1600年(慶長5)関ヶ原合戦後、益田氏20代元祥は毛利氏に従って長門国須佐へ移った。 元々益田氏の居館は大谷土居屋敷にあったと考えられるが、火事で焼失した為にこの地へ移ったとされ、兼見から元祥まで約230年間三宅御土居は益田氏代々の居館となった。1368〜75年(応安年間)の築造と推定されるが、遺物から平安時代末期頃から拠点的な何らかの施設があったとも考えられている。 |
館址 中央を道路が貫通している |
石組井戸跡 | 南東、七尾城から見る館址 画像中央が館址 東西の土塁が見える |