津和野城

津和野城つわのじょう
島根県鹿足郡津和野町後田
Mapion

--三十間台から見る三の丸--
別名 三本松城・蕗城
交通 JR山口線「津和野駅」から登山口まで徒歩25分。
津和野高校前から登山口(大手道)があります。
また城址へ上る観光リフトもあります。
築城年代 1295年(永仁3)
築城者 吉見頼行
形式 山城
主な城主 吉見広行
1274年(文永11)・1281年(弘安4)の再度にわたる元軍の来襲を受け、鎌倉幕府は九州及び中国・四国の沿岸警備に力を入れるが、西石見の海岸防備は吉見頼行に命じた。1282年(弘安5)頼行は地頭として能登から海路この地に至り、築城するに適した地を探し求め、1295年(永仁3)この城山山脈に築城を開始、1324年(正中1)2代頼直の頃に完成したと伝わり、以後吉見氏が14代320年続く事となる。
鎌倉時代からの長い歴史の中で、津和野城を巡る合戦は一度だけであったとされる。1551年(天文20)陶晴賢は主君大内義隆を滅ぼしたが、義隆の姉を奥方とする当時の津和野城主吉見正頼は、主君の仇討ち、そして義弟の仇討ちとして逸早く挙兵した。その為1554年(天文23)津和野城は大内義長・陶晴賢・益田藤兼ら大軍に包囲されるが、4月から8月までの100日余の籠城戦に耐えた。翌年陶晴賢が厳島合戦において毛利元就に敗れると、吉見氏は長門へ侵攻し、毛利氏と合流、大内義長は自刃してこの戦いは終結した。
1600年(慶長5)吉見氏は関ヶ原合戦で毛利氏と共に西軍に属した為、代わって津和野城には坂崎直盛(成正)が3万石で入城した。
1616年(元和2)直盛が「千姫事件」により断絶すると、翌年因幡国鹿野城から亀井政矩が入城し、明治に至るまで11代250年亀井氏が続いた。
三段櫓跡石垣・虎口 馬立・台所跡 海老櫓跡
三の丸 三の丸南門跡 三の丸から見る本丸・人質曲輪石垣
天守台跡 太鼓曲輪 三十間台虎口石垣
内側から見る三十間台虎口 三十間台(本丸) 三十間台から見下ろす津和野市街
未使用石垣用材 井戸跡(万代の池) 出丸(織部丸)虎口石垣
出丸(織部丸) 出丸(織部丸)石垣 出丸(織部丸)下堀切

参考文献 「現地案内板」
                        「鳥取・島根・山口の城郭 新人物往来社」
訪城回数 1
2012年10月