宮崎県延岡市無鹿町2丁目 --南から遠望-- |
別名 | 大友宗麟陣屋 |
交通 | JR日豊本線「延岡駅」から徒歩45分。 |
築城年代 | 1578年(天正6) |
築城者 | 大友宗麟 |
形式 | 山城 |
主な城主 | 大友宗麟 |
1577年(天正5)薩摩・大隈を平定した島津氏は日向に侵攻した。木崎原で島津氏に大敗を喫し衰退の一途を辿る伊東義祐はこれを防ぎきれず、孫義賢・祐兵らを伴い僅かな人数で、義賢の母が大友宗麟の姪である関係を頼り、宗麟の元へ豊後に落ち延びた。 義祐に旧領回復を懇願された宗麟は、1578年(天正6)1月、島津氏に与した松尾城の土持親成を討つべく義統率いる3万の大軍を送り松尾城を攻略、土持氏を滅亡させた。そして同年8月兵站の長さや地勢の険阻から反対する家臣も多い中、宗麟は5万の大軍を率い日向侵攻を決意する。同年6月洗礼を受けドン・フランシスコの洗礼名を名乗り狂信的であった宗麟の本当の目的は、務志賀の地に妻ジュリアと住むキリシタン国を創る事で、薩摩・大隈への侵攻の意図は無かったともされる。宗麟は宣教師を伴い、臼杵から海路を進み、軍船には白地に赤い十字架の旗を掲げ、務志賀に着陣、陸路から進軍する大友勢も寺社を破壊しながら進軍した。 宗麟・義統父子は務志賀に残り、田原紹忍を総大将とする大友勢は更に南下するが、高城川で島津氏に敗れ、敗戦の報を聞いた宗麟も豊後に敗走した。 その後1585年(天正13)8月25日、島津家久や上井覚兼らがこの大友宗麟旧跡である務志賀を見物している。 |
妻耶神社(大将軍神社) |