長篠・設楽原古戦場

長篠・設楽原古戦場
愛知県新城市

1575年(天正3)5月21日
武田勝頼×織田信長 ・徳川家康
Mapion

--復元された馬防柵--
交通 JR飯田線「三河東郷駅」・「長篠城駅」。
長篠城は信州の山間を通り、三河の平地に出る所にあり、甲斐武田氏にとっては重要な拠点となる城であった。1571年(元亀2)武田信玄による遠江・三河侵攻に伴い、武田氏に属すようになるが、1573年(天正1)信玄没後、徳川家康に攻略される。家康は長篠城の改修を行い、奥平貞昌(信昌)を城将とし、武田氏の再攻に備えさせていた。
1575年(天正3)5月、武田勝頼率いる1万5千の大軍は長篠城を奪還する為、医王寺山本陣を中心とし、鳶ヶ巣山砦等の陣城群を築いて長篠城を包囲した。
16日、長篠城を救援するべく織田・徳川連合軍3万8千は岡崎城を発し、設楽原に出陣すると、連吾川の西側に陣を敷き、馬防柵を設けて、武田軍を待ち受ける。対する勝頼は兵3千を長篠城に残し、1万2千の兵を率いて設楽原へ進軍し、連吾川の東側台地に陣を敷いた。
5月21日(今の暦で7月9日)前夜から密かに鳶ヶ巣山を目指していた酒井忠次ら率いる別働隊4千は夜明けと共に鳶ヶ巣山砦の攻撃を開始。
同時刻武田軍が連合軍陣地に攻撃を開始する。連合軍の3千挺の鉄砲・馬防柵の前に武田軍の損害は大きくなるばかりで、正午を過ぎ、武田軍の劣勢は明らかとなる。やがて柵から討って出た敵方に押され始めた武田軍は敗走、武田方馬場信春(信房)が銭亀付近で殿戦に果てると、朝からの合戦は終わった。
この戦いの後、武田軍の勢力は次第に弱まり、7年後甲斐天目山で滅ぶきっかけとなった。
両陣営間を流れる連吾川 柳田前激戦地 徳川家康陣所(物見塚)から見る
武田方陣跡
土屋昌次の碑 大宮前激戦地 佐久間信盛陣跡・丸山
名高田前激戦地 真田信綱・昌輝墓 山県昌景の碑
甘利信康の碑 内藤昌豊の碑 信玄塚
勝楽寺前激戦地 鳥居強右衛門磔死の碑 馬場信春(信房)討死之地

参考文献 「現地案内板」
       「パンフレット」
               「歴史群像シリーズ 学研」
2006年1月・8月
2007年1月