中富川古戦場

中富川古戦場
徳島県板野郡藍住町東中富

1582年(天正10)
長宗我部元親×十河存保
Mapion
犬伏左近墓所地図

-三好方・犬伏城主犬伏左近墓-
交通 JR高徳線「板野駅」から徒歩25分。
四国制覇を目指す土佐国岡豊城主長宗我部元親は、中央の織田信長とも好を通じていたが、元親侵攻に危機感を持つ十河存保(三好存保)や伊予国湯築城主河野氏らが信長に救援を依頼する事で情勢は変わった。
1582年(天正10)5月、伊予・讃岐返上命令に従わない元親を討つべく、信長は3男信孝・丹羽長秀を大将とする四国征伐軍を起こす事となる。しかし渡海予定の6月2日、本能寺で討たれた為、中止となった。
8月、信長の脅威が去った元親は2万3千の兵を率い、岡豊城を出陣、阿波に向かう。8月27日、吉野川南岸の中島に陣し、28日中富川に進出した。一方勝瑞城を守る十河存保以下5千も出陣、勝興寺に布陣し、中富川を挟んで両軍は対峙した。
元親にとっては四国制覇を決定づけるものであり、また存保にとっては信長の後盾を無くした三好氏の興亡を賭けたものであり、合戦は壮絶を極めるが、三好方は次々と有力な武将が討死する等、壊滅的な打撃を受け、勝瑞城に敗走し、この時周辺諸城も落城した。
9月27日、20日余りの籠城の末、存保は讃岐虎丸城へ退き、勝瑞城は落城した。
犬伏左近を祀る大富彦神社 勝興寺城(矢上城) 勝瑞城

参考文献  「現地案内板」
               「歴史群像シリーズ 学研」
2009年3月