愛媛県松山市道後公園 --内堀-- |
別名 | 湯月城 |
交通 | 伊予鉄城南線「道後公園駅」。 |
築城年代 | 1336年(建武3) |
築城者 | 河野通盛 |
形式 | 平山城 |
主な城主 | 河野通直 |
1336年(建武3)足利尊氏に従って戦功を挙げ、河野家惣領職を認められた河野通盛が、それまでの河野氏拠点であった風早郡河野郷(現在の北条市)からこの地に移り築城した。通盛の祖先には、12世紀末、源平合戦の際に水軍を率いて活躍した通信、13世紀後半、蒙古襲来の際に活躍した通有がいる。 その後河野氏は讃岐から攻め入った細川氏との戦いに敗れ、湯築城は一時占領されるが、後に守護職と共に奪還している。 1541年(天正10)36代通直の時、来島城主村上通康を河野家後継者に指名した事から内紛が起こる。通政を擁立する河野一族・家臣団は湯築城を囲むと、通直は来島城に退去した。やがて和睦が成立し、通政が正式に家督を継ぐが、間も無く急死した為、通宣が相続した。 1585年(天正13)豊臣秀吉による四国征伐の際、湯築城は小早川隆景に包囲され、39代通直は降伏した。通直は隆景領である安芸国竹原へ移され、1587年(天正15)同地で死去、ここに河野氏は滅亡した。伊予国は隆景に与えられるが、1587年(天正15)秀吉による九州征伐後、福島正則が入部する。正則は国分山城に移り、湯築城は廃城となった。 1600年(慶長5)関ヶ原合戦の年、河野通軌や河野氏遺臣は旧領回復を目指すが、三津浜合戦に敗れ、御家再興は果たせなかった。 |
道後公園 | 家臣団屋敷跡 | 外堀土塁 |
道路・排水溝・外堀土塁裾石 | 展示されている外堀土塁断面 | 内堀 |
蔀土塁 | 外堀 | 内堀 |