岡豊城

岡豊城おこうじょう
高知県南国市岡豊町八幡
Mapion

--城址碑--
別名        
交通 各線「高知駅」下車。
「高知駅前」バス停からバス「歴史民俗資料館」下車。
築城年代       
築城者 長宗我部氏
形式 平山城
主な城主 長宗我部元親
鎌倉時代初期、長宗我部氏の祖である秦能俊は信州から土佐へ移り、長岡郡宗部郷に居館を定めたと考えられ、この時香美郡の宗我部氏(香宗我部氏)と区別する為、長宗我部氏を名乗ったといわれる。その後江村郷岡豊山へ移り、この岡豊城が築かれたと推定される。岡豊山へ移った時期や築城年については不明だが、鎌倉時代末期から南北朝時代と思われる。
その後長宗我部氏は土佐守護細川氏の被官となり勢力を確立するが、1507年(永正4)細川政元が暗殺されると土佐国内の在地領主間の抗争は激化、岡豊城は本山・吉良・山田・大平ら連合軍に攻められ、長宗我部兼序は嫡子千雄丸(後の国親)を幡多郡一条房家の下に託し、自害した。
その後国親は一条氏の仲介により岡豊城に復帰すると、周辺豪族を次々と攻略、その子元親の代に至り、1575年(天正3)渡川合戦に勝利して土佐一国を平定した。
1582年(天正10)中富川合戦で十河存保を破り、阿波を制圧した後、1584年(天正12)十河城を攻略して讃岐を制し、1585年(天正13)春、湯築城主河野通直を降して四国を統一した。
しかし同年6月から7月にかけて豊臣秀吉と争い敗れ、元親は土佐一国のみを安堵される事となる。1586年(天正14)戸次川合戦で長男信親を失うと、以後元親は領国経営に尽力し、1588年(天正16)大高坂城を経て、1591年(天正19)浦戸城を築いて移った。岡豊城はこの時廃城になったとされる。
城址公園として見学路が整備されており、遺構も良く残されている。
南斜面竪堀に架かる木橋 四の段下横堀 四の段
内側から見る四の段虎口 三の段 三の段石垣
詰の段(本丸) 詰の段下曲輪 詰の段下堀切・手前に井戸跡がある
井戸跡 二の段 二の段土塁
厩跡(出丸) 厩跡から南西、高知市街方面 西から遠望

参考文献 「歴史群像シリーズ 学研」
                「香川・徳島・高知の城郭 新人物往来社」
訪城回数 1
2012年10月