兵庫県尼崎市七松町3丁目 --七松八幡宮境内に立つ慰霊碑-- |
別名 | 七松環濠 |
交通 | JR東海道本線「立花駅」から徒歩10分。 |
築城年代 | |
築城者 | |
形式 | 平城(環濠集落) |
主な城主 |
1507年(永正4)守護細川政元没後、3人の養子、澄之・澄元・高国が家督を巡って対立、「永正の錯乱」と呼ばれる抗争が続き、1519年(永正16)以後、尼崎は両細川の主戦場となった為、自衛の為、環濠が発達した。七松城もその一つで、1520年(永正17)2月、池田城・伊丹城・尼崎城等に兵を集めた細川高国方に対し、細川澄元方の三好之長は難波(尼崎市)に本陣を置くと、この地も陣所として利用された。 また1579年(天正7)織田信長が荒木村重が籠もる有岡城を攻めた際、織田信忠は支城である尼崎城を攻める為、七松に2ヶ所の付城を築き、塩川国満・長満父子・高山右近が定番として置かれた記録が残されている。 「字別井」・「字カイチ」が残る弘誓寺・七松八幡宮が中心とみられ、南側に方形館状の「字シリヤ」、また東側には「字井ガワリ」もあり、環濠屋敷群の形態が考えられるが、宅地化により遺構は何も残されていない。七松八幡宮境内には有岡城攻めで討たれた武士や家族を弔う慰霊碑が立つ。 |