池田城

池田城いけだじょう
大阪府池田市城山町
Mapion

--模擬大手門--
別名        
交通 阪急宝塚線「池田駅」から徒歩15分。
築城年代 室町時代前期
築城者 池田氏
形式 丘城
主な城主 池田勝正
池田城の築城年代は諸説あり、また池田氏についても不明な点が多い。1467年(応仁1)応仁の乱の頃、東軍に属す池田充正が城主であった池田城が西軍大内政弘により攻め落とされた事が確実な資料の初見とされる。
その後池田氏は情勢に応じて、細川氏や三好氏に従い、池田城も度々戦乱に巻き込まれた。
1568年(永禄11)織田信長による摂津侵攻が始まり三好氏が追われると、摂津国衆の大半は信長に従うが、池田城主池田勝正は三好氏への義を重んじ池田城に立て籠もった。9月30日、信長は芥川城から池田城に攻め寄せ、勝正は善戦するが10月2日、池田城は落城した。戦後信長は勝正を許すと、高槻城主和田惟政・伊丹城主伊丹親興との3人に摂津を分け、三守護とした。
1570年(元亀1)同族間の内紛により池田氏は混乱するが、次第に家臣であった荒木村重が勢力を伸ばすようになる。1571年(元亀2)白井河原合戦に勝利した村重は強大となり、1573年(元亀4)槇島城における合戦で信長に従い活躍し摂津一国を任されると、勝正は追放となり、主従は逆転し池田氏は荒木氏の配下として勝正の弟重成が池田城に在城した。
1578年(天正6)有岡城において村重が信長に叛旗を翻すと、重成は出奔し、後に羽柴秀吉に仕えたという。その後の池田城については明らかでないが、この頃廃城になったとも考えられる。
五月山から南方に突き出した高台端に位置する。周囲は断崖になっており、東は空堀により離された独立地形で、この空堀は道路として利用されている。東側は住宅地になっているが、本丸は池田城跡公園となり、虎口や土塁、庭園が復元整備されている。
城址碑 東空堀 排水路
虎口 櫓風展望台 展望台から見る本丸

参考文献 「現地案内板」
                    「大阪・兵庫の城郭 新人物往来社」  
訪城回数 1
2015年3月