大江広元屋敷

大江広元屋敷おおえのひろもとやしき
神奈川県鎌倉市十二所
Mapion

--屋敷址碑--
別名          
交通 JR横須賀線「鎌倉駅」から徒歩40分。
築城年代 鎌倉時代
築城者 大江広元
形式 屋敷
主な城主 大江広元
鎌倉幕府初代政所別当を務めた大江広元屋敷跡。
広元の出自については諸説あるが、藤原出身で、大江惟光の養子となり、1184年(元暦1)鎌倉に下向し、源頼朝に従った。以来頼朝・頼家・実朝源家3代と執権北条義時・泰時2代に及び、幕府の中枢として活躍した。
1185年(元暦2)壇ノ浦合戦で平氏を滅ぼした源義経は平宗盛を連れて凱旋するが、頼朝の不興を買い、鎌倉に入る事を許されず、腰越の満福寺に留め置かれた。この時義経は頼朝へ取り成してくれるよう広元に「腰越状」をしたためている。
1247年(宝治1)宝治合戦の際、広元4男で、三浦泰村の妹を妻とする毛利季光は、三浦氏方に付き、一族共に自害するが、越後国佐橋荘に居た季光の4男経光は難を逃れており、その後経光4男時親は安芸国に移ると、吉田郡山城を築いて本拠とし、後の西国覇者毛利氏の礎となる。

参考文献   「新編 鎌倉事典 文芸社」
       「歴史群像シリーズ 学研」
訪城回数 1
2016年1月