大垣城

大垣城おおがきじょう
岐阜県大垣市郭町2丁目
Mapion

--天守--
別名 東大寺城・牛屋の城・巨鹿城
交通 JR東海道本線「大垣駅」から徒歩10分。
築城年代 1530年代(天文初年)か
築城者 宮川安定または竹腰尚綱とも
形式 平城
主な城主 氏家直元・戸田氏鉄
1467〜1468年(応仁年間)大垣城は東大寺城と呼ばれ、大井荘石包名の代官職を務めていた大垣氏が城主であったとされるが、創建については諸説ある。その一は1535年(天文4)3月、美濃守護土岐氏一族の宮川安定の築城とするもの、その二は1500年(明応9)2月、土岐氏被官の竹腰尚綱の築城とするものであるが、疑問点もある。
1544年(天文13)尾張の織田信秀に攻められ落城し、織田信辰が城主となるが、在城5年で斉藤道三に攻められ、竹越重直の子尚光が城主となった。その後道三とその子義龍との争いで尚光が討死すると、1559年(永禄2)氏家直元(卜全)が入城した。この時大垣城は拡張され、その子直重まで2代氏家氏は在城した。
その後羽柴秀吉に属す池田恒興(信輝)が城主となり、1584年(天正12)長久手合戦後、討死した恒興・元助父子に代わって子の輝政が入城した。翌年輝政が岐阜城に移ると、羽柴秀次・秀長が入り、続いて加藤光泰・一柳直末・羽柴秀勝が入城した。
1595年(文禄4)から翌年にかけて、秀勝に代わって入城した伊藤祐盛(盛正)により天守閣が創建されたという。
1600年(慶長5)関ヶ原合戦の際、祐盛の跡を継いだ盛宗は西軍に属し、大垣城は石田三成、宇喜多秀家、島津義弘らが入城し、西軍拠点となったが、東軍が佐和山・大坂方面に向かう事を知ると、行く手を阻む為、関ヶ原に移動した。これは家康が野戦に持ち込む為、情報を流したといわれる。
戦後、石川氏3代、松平氏(久松)2代、岡部氏2代、松平(久松)1代が城主となり、1635年(寛永12)7月、摂津国尼崎城から戸田氏鉄が入城すると、明治に至るまで11代戸田氏が続いた。
石垣 戸田氏鉄像

参考文献 「現地案内板」
                        「静岡・愛知・岐阜の城郭 新人物往来社」
訪城回数 2
2006年11月
2010年3月