長久手古戦場

長久手古戦場
愛知県長久手市武蔵塚

1584年(天正12)
羽柴秀吉×徳川家康・織田信雄
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--古戦場碑(古戦場公園)--
交通 リニモ(東部丘陵線)「長久手古戦場駅」。
小牧の戦いで長期の膠着状態になった戦況の中、羽黒合戦で敗戦した羽柴秀吉方の池田勝入恒興は名誉挽回の為、徳川家康の本拠である三河国岡崎に侵入し、後方を攪乱する事を秀吉に進言、4月6日、羽柴秀次を総大将とする別働隊1万6千は出陣する。第一隊は池田勝入父子、第二隊は森長可、第三隊は堀秀政、第四隊は羽柴秀次であった。
8日これを察した家康は小牧山から1万の兵で追撃し、9日池田恒興らが岩崎城攻略に時間を費やしていた間、長久手付近で追いついた。
はじめに最後尾の秀次本隊が奇襲を受け敗走し、次に堀秀政隊も家康の出馬を知り退却、孤立した森長可・池田恒興隊は壊滅し、長可・恒興は討死した。間も無く秀吉が救援に駆け付け、龍泉寺に布陣したが、家康は小幡城を経て小牧山へと兵を退いた。
その後秀吉と信雄が講和すると、11月21日、家康は遠江国浜松城へ退いた。
八幡林・長久手で行われた局地戦では家康側が勝利したが、大局的に見れば両者ほぼ互角の睨み合いに終わった。しかし一応家康側と講和した事で、秀吉は最大の難関を越え、天下統一へ向け、大きく前進していく事となる。
勝入塚(古戦場公園)
恒興戦死地
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首塚
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色金山
家康陣跡
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堀秀政本陣跡
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御旗山
この山に進軍した家康は頂上に
金扇の馬印を立てたという
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血の池公園
この一帯が主戦場となり、血の池は
家康方渡辺半蔵らが血槍や刀を
洗った事に由来するという

参考文献 「現地案内板」
               「歴史群像シリーズ 学研」
2009年4月