忍城

忍城おしじょう
埼玉県行田市本丸
Mapion

--復興された御三階櫓--
別名 亀城・忍の浮き城
交通 秩父鉄道「行田市駅」から徒歩15分。
築城年代 1490年(延徳2)
築城者 成田下総守親泰
形式 平城
主な城主 成田泰秀
1489年(延徳1)山内上杉氏に従う成田親泰が、扇谷上杉方であった忍大丞を滅ぼし、翌2年築城に着手した。
山内上杉氏が滅ぶと、親泰の子である長泰は上杉輝虎(謙信)に従った。しかし鶴岡八幡宮で長泰は輝虎に辱しめを受けると、北条氏に属するようになり、以後忍城はしばしば輝虎に攻められた。
1590年(天正18)豊臣秀吉による小田原城攻めの際、北条氏の属城は次々と落とされ、忍城も石田三成・長束正家らに攻められた。成田氏長は小田原城に参陣していた為、忍城には成田泰秀以下2千6百余人が拠っていた。周囲を水堀や深田に囲まれた忍城を攻めあぐねた三成は、築堤を築き水攻めを行ったが、大雨で堤が崩れ、陣内に水が流れ込んだ為、高地を求め陣地を後退させた。その後7月5日小田原城が開城すると11日忍城も開城した。
徳川家康が関東に入ると、松平主殿助家忠、次いで家康の4男松平下野守忠吉が入城し、1600年(慶長5)清洲城へ移った。
1626年(寛永3)酒井讃岐守忠勝が深谷から5万石で入封し、翌年川越城へ移る。続いて1633年(寛永10)松平伊豆守信綱が3万石で入封した。その後阿部豊後守忠秋が入封し、以後9代183年間、阿部氏が忍城主となった。
そして1823年(文政6)桑名城から松平下総守忠堯が10万石で城主となり、明治維新まで4代続いた。
鐘櫓 本丸土塁 本丸北・東照宮(諏訪曲輪跡)

参考文献 「現地案内板」
                    「東京・埼玉の城郭 新人物往来社」
訪城回数 1
2008年2月