熊本県葦北郡芦北町佐敷 --本丸石垣-- |
別名 | 花岡城 |
交通 | 肥薩おれんじ鉄道「佐敷駅」から登山口まで徒歩20分。 西下に建つスカイドーム敷地内のテニスコート裏、又は東麓の 芦北町社会教育センター付近からそれぞれ登山道があります。 |
築城年代 | 南北朝時代か |
築城者 | 佐敷氏 |
形式 | 山城 |
主な城主 | 加藤重次 |
南北朝時代後期、「深江文書」や「入来院家文書」にみえる「佐敷城」が初見だが、この佐敷城の事か、又は佐敷東の城の事か、明らかでない。 1559年(永禄2)相良氏が菊池為邦により芦北郡一円を安堵されている。 1581年(天正9)島津氏は水俣を攻め、相良氏を降すと、宮原景種を佐敷地頭に置いた。 1587年(天正15)豊臣秀吉による九州征伐後、肥後一国を与えられた佐々成政は、隈本城に入城するが、失政の責任を問われ自刃すると、この地は加藤清正領となり、薩摩の押さえとして佐敷花岡城が築かれ、加藤重次が城代を務めた。 1592年(文禄1)重次が朝鮮に出兵し、僅かな城番衆だけの佐敷城は梅北国兼に一時占拠されたが、その後国兼は討たれた。「梅北一揆」 1600年(慶長5)関ヶ原合戦の際にも島津氏に攻められている。その後も熊本城の支城として、重次が続いて城代を務めたが、1615年(元和1)一国一城令により廃城となった。そして1638年(寛永15)天草・島原の乱後、幕府より破却が不十分と指摘され、再度壊された事が明らかとなっている。 細川氏時代には東麓に番代屋敷が設けられ、政務が行われる事となる。 佐敷城は2度の破却が行われ、石垣は上部が破壊されているものの、良く残されている。アクセスしやすく、城址からの眺望も非常に良い。 |
佐敷番代屋敷跡 | 二の丸東石垣 | 内側から見る追手門跡 |
二の丸東門跡 | 内側から見る二の丸東門跡 | 二の丸・三の丸西石垣 |
二の丸・正面が本丸 | 二の丸から三の丸方面 | 本丸東虎口 |
本丸東門跡 | 本丸から見る北曲輪 | 本丸から西方、不知火海方面 |
本丸北門跡 | 南・駐車場から城址遠望 | 南西麓から城址遠望 |