1377年(永和3)赤穴荘の地頭となった佐波備中守常連により築かれたとされ、後に佐波氏は赤穴氏を称した。出雲・石見・備後三国の国境に接し、戦国時代には月山富田城の支城として需要な役割を果たした。 1542年(天文11)大内義隆率いる出雲遠征軍(毛利氏・陶氏ら)4万に攻められるが、尼子方に属す城主赤穴久清・光清父子は神戸川を堰き止めて城下を湖水化させ、籠城戦を挑んで奮戦、光清は熊谷直続を討ち取り、一時大内勢を退却させるが、その後討死、久清は降伏した。しかし翌年、月山富田城攻めに失敗した大内軍が撤退すると赤穴氏は瀬戸山城に復帰した。 1562年(永禄5)出雲に侵攻した安芸国吉田郡山城主毛利元就は瀬戸山城攻略の為、尾根筋に大規模な陣城(武名平ヶ城)を築いて瀬戸山城と対峙、赤穴氏の降伏後、瀬戸山城は毛利氏により改修され、出雲侵攻の拠点となった。 1600年(慶長5)関ヶ原合戦後、赤穴(中川)元寄は周防・長門二ヶ国に減封された毛利氏に従って赤穴の地を離れた。代わって出雲国に入部した堀尾吉晴は城番として松田左近将監吉久を瀬戸山城に置き、この時石垣を築く等、近世城郭化を図ると共に城下町も整備された。2代目城主として左近の子で堀尾吉晴の娘婿でもある堀尾因幡が続き、その後堀尾氏に代わって出雲国に入部した京極氏は瀬戸山城に山中織部を置いたが、1615年(元和1)一国一城令により破却された。 標高683メートル山頂の主郭を中心とし、南北にそれぞれ二郭・三郭・四郭・五郭を設け、更に南西尾根に曲輪群が築かれている。この主要部から鞍部を挟んで東には堀尾氏に放棄された赤穴氏、または毛利氏期の遺構と考えられる東郭群があり、土塁や堀切が残されている。また東郭群の東端部から武名平ヶ城までハイキングコースが続いている。 |