富岡城

富岡城とみおかじょう
熊本県天草郡苓北町富岡
Mapion

--本丸に復元された高麗門--
別名 富岡臥龍城
交通 産交バス「本渡バスセンター」からバス「一丁目」下車。
築城年代 1605年(慶長10)
築城者 寺沢広高
形式 山城
主な城主 山崎家治
中世苓北の地は志岐城主志岐氏が統治し、天草の中心として栄えたが、1587年(天正15)豊臣秀吉による九州征伐後、宇土城主小西行長の支配下に入る。
1600年(慶長5)関ヶ原合戦後、西軍に従った小西氏に代わり、肥前唐津藩寺沢広高の領有となり、1605年(慶長10)この富岡城を築くと代官を置いて天草を支配した。
1637年(寛永14)10月、肥前有馬村での代官殺害事件を発端とする島原の乱の際、天草でも天草四郎率いる天草一揆が一斉蜂起し、富岡城代三宅藤兵衛率いる唐津軍は鎮圧に向かうが、本渡合戦で敗れ、藤兵衛は自害した。続いて富岡城は一揆勢に攻められ、落城寸前まで追い込まれるが、かろうじて撃退している。
翌年6月、乱の責任を問われた唐津2代藩主寺沢堅高に代わり、築城の名手といわれる山崎家治が入部すると大改修が行われた。麓には百間土手を設けて入江を仕切り、袋池(淡水湖)として用水の確保、または内堀とする等、現在見られる富岡城の形が完成した。1641年(寛永18)家治が讃岐国丸亀城へ移ると、天領となり、初代代官鈴木重成が任ぜられるが、1664年(寛文4)再び私領として戸田忠昌が入部した。
1671年(寛文11)忠昌転封後、富岡城は破却され、再び天領となり、旧三の丸に代官所が設けられ、明治初期まで富岡は天草行政の中心としての役割を果たした。
現在城址は櫓や土塀、高麗門が復元整備されており、本丸跡には「熊本県富岡ビジターセンター」、二の丸跡には歴史資料館が設置されている。三の丸は九州大学臨界実験場敷地となり、付近に百間土手や袋池が残されている。
大手門跡石垣 百間土手 袋池
追手門跡石垣 二の丸東虎口 本丸虎口
本丸に復元された高麗門 本丸 本丸北櫓(ビジターセンター)
本丸から見る二の丸 本丸下竪堀 二の丸
勝海舟・頼山陽
鈴木重成・鈴木正三像
出丸 出丸から見る二の丸
二の丸東角櫓 二の丸東石垣 出丸下石垣

参考文献 「現地案内板」
                           「福岡・熊本・鹿児島の城郭 新人物往来社」
訪城回数 1
2017年1月