尻高城

尻高城しったかじょう
群馬県吾妻郡高山村大字尻高
Mapion
案内板地図
--本丸・二の丸間堀切--
別名 ゆうげい
交通 JR吾妻線「中之条駅」からバス「戸室」下車。
築城年代 1401年(応永8)
築城者 長尾重国
形式 山城
主な城主 尻高氏
1401年(応永8)3月、白井城主長尾重国の家臣により築城、1403年(応永10)完成すると役原城に在った重国の3男長尾重儀は尻高城に移り、尻高左馬頭重儀と名を改めた。また同時期、南西1.5キロには平時の居館として並木城も築かれている。
尻高氏は尻高・大塚・平・赤坂・市城までの2024石を領有し、威勢は盛んであったが、築城から滅亡まで約180年、武田・上杉・後北条方の勢力の争点の中で苦難を続けた。
1578年(天正6)上杉謙信の死による御館の乱に乗じ、沼田城は後北条氏の支配下に入るが、1580年(天正8)武田氏方真田昌幸は調略により沼田城を攻略した。尻高景家は一人後北条方として宮野城を守っていたが、沼田城代海野輝幸に攻められ、討死、または開城後、後閑の恕林寺で自刃したともいう。
1589年(天正17)12月、横尾八幡城に立て籠もり、沼田城から進撃する後北条勢を撃退した吾妻勢の中に尻高源次郎の名が見える。
小屋地区北面に位置する岩上の要害城で、土地では「ゆうげい」(要害の転訛)ともいわれる。山頂は本丸と堀切を隔て二の丸と幾つかの小曲輪から成り、6基の石宮と切り石(貯水槽)がある。また山頂から南西中腹、登山道途中には出丸が設けられている。
南麓に立つ城址碑・案内板 出丸堀切 出丸
西尾根曲輪 石宮 本丸西曲輪
本丸 二の丸 案内板にある切り石(貯水槽)か

参考文献 「群馬の古城 あかぎ出版」
                  「群馬県の中世城館跡 群馬県教育委員会」
                「茨城・栃木・群馬の城郭 新人物往来社」
訪城回数 1
2022年3月