群馬県沼田市西倉内町 --本丸西櫓台-- |
別名 | 倉内城・蔵内城 |
交通 | JR上越線「沼田駅」から徒歩20分。 |
築城年代 | 1532年(天文1) |
築城者 | 沼田顕泰 |
形式 | 崖端城 |
主な城主 | 沼田顕泰・藤田信吉・真田信之 |
1532年(天文1)三浦系沼田氏12代顕泰(万鬼斎)が幕岩城に代わる新たな拠点として築いたとされ、当時は倉内城と称された。 1552年(天文20)後北条氏が平井城主関東管領上杉憲政を追い、この地に進出すると顕泰は後北条氏に従い、武蔵国花園城主用土重連が在城した。 1560年(永禄3)上杉謙信が関東出陣の際、沼田城の東を迂回して南方の長井坂城に着陣すると後北条勢は退去して顕泰は上杉氏に降った。以後沼田城は上杉氏の関東進出の拠点となる。 この間顕泰は沼田城を嫡子朝憲に譲ると側室ゆのみとその子平八郎景義と共に川場村天神城に隠居したが、1569年(永禄12)1月、ゆのみとその兄金子美濃守泰清らの策を用い、朝憲を天神城に招いて謀殺した。その為沼田勢に天神城を追われ、会津芦名氏の下へ走った。ゆのみは凍死、顕泰も会津で客死、景義は後に女淵城に移っている。 1578年(天正6)謙信の死による御館の乱に乗じ、沼田城は後北条氏の支配下に入り、藤田信吉・金子美濃守が城代として置かれた。 1580年(天正8)武田氏方真田昌幸は調略により藤田信吉・金子美濃守を降し、沼田城を攻略した。 1581年(天正9)女淵城に在った景義が故地回復の為、沼田に迫るが、昌幸は金子美濃守を通じて景義を謀殺、首級を置いて首実検を行ったという「平八石」が現在捨曲輪に置かれている。 1582年(天正10)武田氏滅亡後、昌幸は織田信長に従属し、厩橋城に入城した滝川一益の指揮下に入る。所領は安堵されるが、沼田城は滝川氏に接収され、滝川益重(儀太夫)が入城した。同年6月、本能寺の変が起こると藤田信吉が奪還を目論み、攻め寄せるも果たせず、越後国へ逃れた。その後神流川合戦で後北条氏が滝川一益に勝利すると滝川益重は沼田城を開城し、再び昌幸の支配下となる。 1584年(天正12)小牧・長久手合戦の際、徳川家康は背後を固める必要から後北条氏と和議を結んだが、後北条氏は和議の条件として沼田城を要求する。1585年(天正13)沼田城の譲渡を拒絶した昌幸が上杉景勝と結ぶと家康は真田征伐に出兵、同年8月2日鳥居元忠・大久保忠世ら率いる7千の兵は信濃国上田城に迫るも昌幸はこれを退けた。「第一次上田合戦」 1589年(天正17)7月、豊臣秀吉は利根・吾妻の約3分の2(沼田城を含む利根・沼田一帯)を後北条領、残り3分の1(吾妻一帯)を真田領と裁定した。しかし同年10月23日、沼田城代である猪俣邦憲が真田方名胡桃城を謀略を用いて奪う事件が起こる。名胡桃事件を知った秀吉は惣無事令に違反した後北条氏の不信を怒り、翌年小田原攻めを行い、後北条氏は滅んだ。これにより沼田城は真田氏に返され、昌幸の子信之が2万7千石で入城する。 1600年(慶長5)関ヶ原合戦後、西軍についた昌幸・信繁父子は高野山へ追放されるが、東軍に従った信之は沼田を含む真田旧領9万5千石を領した。1616年(元和2)信之が信濃国上田城に移ると、長男信吉が沼田城主となり、その後も真田氏が続くが、1681年(天和1)信澄の時、真田氏は改易となり、翌年沼田城は破却された。 1703年(元禄16)本多正永が沼田に移封されると、沼田城は一部再興され、その後沼田藩主は黒田氏・土岐氏と続き、明治を迎えた。 |
三の丸堀跡 | 三の丸土塁 | 北から城址遠望 |
二の丸北土塁 | 二の丸北・天狗滝の崖 | 本丸堀跡 |
本丸 | 本丸に復元された鐘楼 | 英霊殿東側が天守跡推定地 |
本丸西櫓台石段 | 本丸西櫓台石垣 | 捨曲輪 |
捨曲輪・平八石 | 捨曲輪から北側の眺め | 天桂寺脇を流れる城堀川に残る 布積み石垣 |
天桂寺 2代藩主真田信吉墓所 |
舒林寺 4代藩主真田信政の2男信守墓所 |
正覚寺 大蓮院(真田信之室・小松姫)墓所 |