洲本城

洲本城すもとじょう
兵庫県洲本市小路谷
Mapion

--模擬天守--
別名    
交通 「洲本バスセンター」から登山口まで徒歩15分。
築城年代 室町時代
築城者 安宅氏
形式 平山城
主な城主 脇坂安治
紀伊国牟婁郡安宅荘を出自とする安宅氏により築かれた事に始まる。1350年(観応1)4代頼藤の時、足利尊氏の子義詮の命により淡路国沼島・阿万の海賊退治の為に来島した後、島内に勢力を伸ばし、一族はそれぞれ要地に居城を築いた。洲本城は1504〜21年(永正年間)から1521〜28年(大永年間)頃にかけて築かれたと考えられる。
淡路安宅氏は三好元長の3男冬康を養子に迎えると、淡路水軍を率いて各地を転戦し、冬康没後、跡を継いだ信康は織田信長に従い、毛利水軍と木津川口で戦った。
しかし信康没後、跡を継いだ清康は毛利氏に従った為、1581年(天正9)羽柴秀吉に攻められた。その後清康は信長に許されて所領は安堵されるが、間も無く病死した為、淡路安宅氏は滅亡した。
1582年(天正10)淡路安宅氏に代わって洲本城には菅平右衛門が入城するが、本能寺の変後、秀吉は四国の長曽我部氏に対する備えとして仙石秀久を置いた。
1585年(天正13)脇坂安治が3万石で入城すると、加藤嘉明らと共に水軍を率いて後北条氏征伐や朝鮮出兵に活躍する。
1609年(慶長14)安治が伊予国大洲城へ移った後、淡路は藤堂高虎、次いで池田忠雄が領有し、この忠雄の頃、由良城が築かれ、一時本拠は移された。
1615年(元和1)阿波国徳島城主蜂須賀家政の子至鎮が淡路を加封されると、城代として稲田氏が由良城に置かれたが、統治に不便であった為、再び洲本城に本拠は移された「由良引け」。この時山麓の「下の城」が改修され、城下町は整備された。以後稲田氏は洲本城代として、幕府から淡路仕置職に任ぜられ、明治まで大名格をもって16代続いた。
洲本城は三熊山山頂の「上の城」と北麓の「下の城」から成る。現在「下の城」は淡路文化史料館や検察庁敷地となるが、水堀が残る。三熊山への登山道はいくつかあるが、税務署や裁判所が建つ南側の登山道は北西に築かれた登り石垣下を経由するルートとなる。この登り石垣は朝鮮の役に従軍した脇坂安治によるものと考えられ、国内でも数少ない貴重な遺構とされている。山頂は本丸を中心とし、東西にそれぞれ西の丸・東の丸等を配し、非常に広大で石垣が良好に残されている。
登り石垣 籾蔵跡 西門跡
西の丸 本丸西石垣 本丸
模擬天守 本丸から北の眺め 本丸から東の丸方面
本丸南大石段 南の丸 本丸南石垣
東二の門跡 東の丸石垣 武者溜跡北斜面・竪堀
東一の門跡 山麓藩邸跡 稲田氏向屋敷跡

参考文献 「現地案内板」
                          「ひょうごの城 神戸新聞総合出版センター」
                     「大阪・兵庫の城郭 新人物往来社」
訪城回数 1
2015年1月