摺上原の戦い

摺上原の戦い
福島県耶麻郡猪苗代町

1589年(天正17)
伊達政宗×蘆名義広
Mapion
三忠碑地図

--三忠碑--
交通 JR磐越西線「翁島駅」から徒歩30分。
1589年(天正17)米沢城を出陣した伊達政宗は、会津黒川城を本拠とする蘆名義広と雌雄を決すべく、5月3日本宮城に着陣、4日に安子島城、5日に高玉城を攻め落とした。
次いで政宗は猪苗代へ向かうが、義広の重臣猪苗代盛国にかねてから内応工作を行っており、6月4日頃、猪苗代城に入城する。
6月5日、盛国の謀反を知った義広は黒川城を発し、高森山に布陣する。これに対し政宗も磐梯山麓の八森山に本陣を置いた。
当初摺上原には強い西風が吹いており、追い風に乗って義広が優勢であった。しかしその後突如として東風に変わり、勢いに乗った政宗勢は猛攻を加え、義広は退却を余儀なくされた。
黒川城に戻った義広に、政宗に対抗する力はもはや残っておらず、白河へ敗走、佐竹氏を頼り落ちていった。これにより蘆名氏は滅亡した。
6月11日、黒川城に入城した政宗は、居城を米沢から移し、会津地方の制圧に成功した。

三忠碑
摺上原合戦において、義広の家臣、金上盛備・佐頼種常・その子平八郎常雄は主君の危機を救い、その後討死した。三忠碑はこれを後世に伝える為、会津藩主松平容敬が建立したもので、地図の地点、松並木の中に立てられている。

参考文献  「現地案内板」
               「歴史群像シリーズ 学研」
                           「戦国合戦詳細地図 インフォレスト株式会社」  
2011年5月