1547年(天文16)7月21日 三好長慶・三好実休×細川氏綱・遊佐長教 --舎利尊勝寺-- |
交通 | 大阪環状線「寺田町駅」から徒歩25分。 |
1507年(永正4)守護細川政元没後、3人の養子、澄之・澄元・高国が家督をめぐって対立し、「永正の錯乱」と呼ばれる抗争が続いた。 1531年(享禄4)澄元の子晴元は大物合戦で高国を敗死させると、1536年(天文5)高国弟である晴国を自刃に追い込んだ。 1543年(天文12)細川尹賢の子氏綱が高国の跡目を称して挙兵すると、12代将軍足利義晴もこれを支持した。1547年(天文16)将軍山城に籠もる義晴・義輝父子は晴元率いる3万に攻められると、城を焼いて近江坂本へ逃れた。続いて晴元は三好長慶・三好実休(義賢)を氏綱・遊佐長教が拠る高屋城に向かわせると、高屋城から打って出た氏綱・長教軍と舎利寺で激突した。激戦の末、晴元方が勝利し、三好長慶が台頭する契機となる合戦であった。 |